
政治の話や社会情勢などのことで、日々、悶々、もやもや、ソワソワ、し続けています。
「これまで通り」が通用しなくなった世界と、そこに暮らす自分と、そこから出てくる歴史のことを考えると「どうにもならないし、どうなっちゃうんだ?」と頭がヒートアップする…ような、逆に固まってしまうような感じもします。
ただ、そういったスケールの大きな話でも、人に話したり、また、相手の話を聞いていると「この人はこういう気持ちになっているんだな」「こういうふうに考えるのだな」と結局、その人という個人について目線が映っていくこと、また、そう思う私自身の存在に気づきます。
大きい話を考えようとするとポカンとしてしまいますが、結局、話しかける相手と、話している私の間から会話が生まれ、進んでいくのだなと思ったら、少し楽になりました。
個人の生活は政治に影響されているし、国内の政治は国外の政治とつながっている。政治だの経済だのと言っている間にもそれらを襲い来る災害については、地球環境全体を考えないといけません。
ただ、全体を見た上で、その“全体”を考えるならやはり“個”に立ち帰る必要があるでしょう。
なぜなら、社会を構成する最小単位は“個”であるからです。
戦禍の中に立つのも、抵抗するのも、気候変動に加担するのも、行動するのも、政治について語るその言葉も、結局は個人によるもの。社会という塊でもければ、データが示す数字そのもの値もなく、時代、なんていう漠然としたものでもない、あなたや私を含んだ“個人”なんですよね。
そのようにして、自分自身や半径数メートルを意識した上で、全体について考える。その態度こそ、世界に対する当事者意識であり、政治的な目線なのだと思います。
友達と「戦争なんて嫌だよね…」と話し、問題の複雑さに滅入っては、顔を曇らせるその人や、それに心を動かされる自分に“個”を感じてハッとする。ハッとするのにまた忘れてもやもやする。
大きな問題の中には、そういう、気にしなければそのまま忘れてしまいそうな、小さな小さな事が無限に含まれていることを、忘れないようにしたいです。


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