
やまゆり園事件についての本を読んだりテレビを見たりしている。
このところ、政治の話にやきもきしてばかりだが、事件の流れを改めて見ていたら、ふと、植松死刑囚の言う「役に立たないものは殲滅して良い」という思想と、今のこの国の在りかたが重なって見えた。
現政権がいま積極的に行っているのは、「理想的な国」に於いて、役に立つ者、役に立たない者の選別ではないか。
スパイ防止だの安全のためだのと言って市民の権利を段階的に狭めていき、そこについていかない者は置き去りにする。自分たちの望む国にするために、先に理想の枠組みを決め、ジグソーパズルのように、そこに国民を配しているのである。(そのパズルのピースには皇族まで含まれている。)
また、喫緊の現実的な課題に手をつけないのは「現状の苦痛を顧みない」という消極的な排除だ。
“あるべき形”に人を押し込め、そこに役立たないものは排除するというのは、まさに優生思想そのものである。
「私たちのことを私たち抜きに決めないで」という言葉がある。
「当事者のことを、当事者がいない場で決定していかないで」という、障害者権利条約のスローガンだ。
今この言葉を、障害者運動から切り離して「私たちの声のようだ」と思う人は多いだろう。
これまで、いわゆる社会的マジョリティから
「性的マイノリティや障害者などの少数者にいちいち配慮していられない」
「そう言う少数者が社会的な不利益を被るのは仕方ない」
などという声がしばしば聞かれてきた。しかし、今や一部の資本家や富裕層を除いた、ほとんどの国民が、マイノリティ化しているといえないか。正確には「予備軍」かもしれない。
なにしろ、この国において誰が、マジョリティである事を許されるかは国家が決めるのである。現時点では違うかもしれない。しかしそういう方へ進んでいるのは間違いないだろう。
では、そのような社会で、障害者はこれからもずっと、排除されていく存在なのだろうか。
私はそうは思わない。むしろ一部の障害者は歓迎されるはずだ。多様性への配慮を、対外的にアピールできる「理想の障害者」は、美しい国に欠かせないから。
そんな感じのことをぐるぐる考えていて、読んでいた本を閉じたとき「ああ、私は違和感になりたい」と、思った。
違和感がゴロゴロでしていて歩きにくい世界を、それでも歩く方法を、皆のために、皆が考える社会になってほしい。そのためのものになりたい。
私がなりたいのは、「美しい国」のパーツではない。「美しくない世界をどうにかしようと皆で動ける国」のパーツだ。個人の魂が、単一的な美しさでなんて図られてたまるものか!
無限の違和感の一部であり続けること。その気高さをこそ、私は美しさと呼びたい。


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