
先日、いまの20代の人のことを考えつつ、その世代の時の自分のこと(ちょうど20年前)を思い出していました。
生きづらさをテーマにしたイベントを知ったのがその時期だったんですが、この20年で、障害者とか、性的マイノリティとか、さまざまなマイノリティ属性を持った人の「外に出ても良い」という感じはすごく進んだなと感じます。
もちろん、まだ課題は山ほどありますが、20年前はほんとに、大人しく息をひそめるか「メンヘラ」と茶化したりして、コンテンツ化するかの、ほぼ2択でした。
だからこそ、当事者が自分を語るのに、障害者とか、80-90年代ぽく言うところの“ビョーキ”ではない呼び方が必要で、“生きづらい”という言葉が出てきたんでしょう。
最近、虚弱な生き方を描いたエッセイ「虚弱に生きる(絶対に終電を逃さない女 著・扶桑社)」が話題になっていました。
病気じゃないけど、体力がない。労働する元気も恋愛する元気もない――。
SNSで「虚弱エッセイ」が話題沸騰の著者による「虚弱体質」のリアルをつづる、新世代のサバイバル・エッセイ!
出版されたときに、なんとなく情報として知ってはいたのですがこういった本が“話題書”になることに、すごく時代の変化を感じます。
個人レベルでの理解は別として、個々の生活のつらさを、同情を引いたりマジョリティに対する媚び(?)としてではなく話すという語り方は、これまであまりなかったんじゃないでしょうか。
そういうつらさを持った人が増えたという背景も大きいとはいえ、同じようなつらさを持った人はこれまでもいたはず。その人たちが、声を潜めているべき特殊な人“ではない”と気づかれ始めたのは前進だと思います。
そういう話が出てきたというだけで理解はまた別ですが、自分を隠したり偽ったり騙したりするのではない存在の仕方は、自分が20代のころは、心理学書とか自己啓発本の類以外には、ほとんどなかったように記憶しています。(もっと上の年齢の人が読む本だとまた違うんだと思います)
とはいえ昭和生まれとして、その弱さの肯定を「繊細過ぎでは」と感じることも正直、ないとは言えませんが「私の頃にそういう繊細さがもう少し尊重されていたら良かったのにな」とも。
きっと私が思う「繊細すぎでは」の裏には「私はそれを、克服すべき弱さとして否定してたしさ…」という、後悔や嫉み?!があるんでしょう。
よく昭和生まれの人間で「昔はおおらかだった」なんて言う人がいますが、あれはマジで、ある程度ポジティブで心身が健康で、困らない程度に健常者な人の目線であって、そうでない人をぎゅうぎゅうに狭いところに追いやっていたから伸び伸び広々してたってだけだと思いますよ!!!!!!!!!!!!!!!!
若者時代に、人の中の弱さや繊細さを肯定する、外側からの選択肢?可能性?があるとないとじゃすごい、その後の人生に差があるんではないかなあ。
今だからこその悩みや辛さ、バックラッシュもあるから、単純な良し悪しは言えませんが、考え方や価値観の変遷に気づくと「生きてみるもんだな〜」と感じます。
青年のようなフレッシュさや、シニアのような落ち着きはないですが、過去も未来も見てキョロキョロできるのが中年の面白いところですな…。


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