怒りの形

周りが見えないように、後ろから手で顔を覆われている人のイラスト テキスト
周りが見えないように、後ろから手で顔を覆われている人のイラスト

国内で、デモやプロテストの活動が活発になるにつれ、様々なやり方が広がってきましたが、その中でも、いくぶん強めの行動があり、SNSで物議を醸していました。

そのやりとりを見ていて、私が一番気になったのは、当該のアクションの是非より、それを批判する人に見られる、怒りの表現への忌避感です。
「攻撃的なやり方は引いてしまう人がいる」「デモは共感を得る表現でなくてはいけない」という声があり、それに正直、驚いたのです。否定ではなく、認識の差として。

私にとってデモは、怒りの発露です。やり方はともかく、公共から権力に向かってデモンストレーションをするというもの、という認識でした。街中でチラシを配るように公共で市井の人へアピールするのは、アクションとかアピールであり、あまり”デモ”とは思っていませんでした。(まあ、名前なんて別にどうでもいい気もしますが!)
しかし、冒頭の“強めの行動”への批判意見には「(デモは)共感を得られる形ではないとダメ」と言い切っているものもあり、引っ掛かりを感じました

日本人はもっと、怒る事に慣れたほうが良いのではないでしょうか?

怒りっぽくなるとか攻撃的になるという意味ではありません、怒りは権利であり、自分のも他者のも尊重されるべきものです。誰かにお願いして、発露の可否を問うものではありません。
適切な怒りを発露する方法として“アンガーマネジメント”みたいなものが持ち上げられ始めた時も、私は同じような違和感を感じていました。
マネジメントするほどの怒りを持つことを、私たちは自分に、他人に、許しているでしょうか。

そして、そういった「怒りへの忌避感」を見て私が連想せずにいられないのが、障害者の権利獲得運動の歴史です。

マイノリティが本来は当然である権利を主張する時、しばしばそれは「なぜそんなことを」「そんな強い言葉で怒らなくても」などという驚きや不快感をマジョリティに与えます。しかし、不快感はそのインパクトにこそ意味があります。
その不快感をこれまで与えてきた者は誰なのか、温厚な手立てではなく、不快なまでの怒りの表現をした背景には何があるのか?一瞬でも、考えざるを得なくなります。「不快感」にはそういう力があると、私は思っています。

治安や政治を権力に委ね、従順な羊であることを己にも他者にも求め、「和を持って貴しとなす」などとしてきた結果が今なんじゃないでしょうか。
「デモは共感を得られる形ではないとダメ」という声に、私はその現在地を見たような気がしてしまいました。

反戦運動はマイノリティの権利獲得運動とはアピールの矛先も違うし、単純に並べるのは雑すぎるでしょう。
ただ、いずれにせよ、抗議や訴えにおける「怒り」を軽んじてほしくないのです。
結果的に温厚な表現をしたとしても、その根底にある、煮えたぎるような怒りを否定してほしくありません。それはきっと、誰のためにもならないから。

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