
当事者でありながらそれを描いている人でありながら話せる人でもある、という立場で人に会うことが増えると、たまに「私は何を見ているんだろう」とぼんやりとしてしまう事があります。
というのも、ある程度生活できるようになっている現在から見えている景色と、病院や当事者会で感じるそれに妙な隔たりを感じるからです。
たぶん、外から見える分析と、障害当事者の声に壁があるからなのでしょう。長期的な視野で俯瞰して見た分析と、“今ここ”を暮らす当事者の間が、どこかつながらないのです。
以前、障害関係の、社会学…哲学?だかなんだか?…そういう人文系の研究が集まる場に行って「なんか無理」という気持ちになって、帰ってしまったことがありました。
うまく言葉にできないけど、そこにいる人たち皆が、描かれた青写真の話をしていて、毎日挨拶する相手だとか、昨日風呂に入った(入れた)か、みたいな、日常の話はしていないように感じたんです。本当は違うのかもしれないけど、なんとなく。
障害の話をしているはずなのに「私たち抜きで私たちのことを決めないで」という気持ちになってしまいました。
その空虚さを感じることが少なくないからこそ、本を書いたり当事者の話をしていても、自分に対して「お前は何様なんだよ」という気持ちをいつも持っています。
それはまさに、私がしばしば、先述のような研究者や、障害者側に寄り添ってこようとする人に全般に感じている猜疑心そのものです。
前に精神障害の当事者メインのイベントに、障害者ではない人が来た時「見えないものが見えない(妄想や幻覚の体験がない)俺の方がおかしいような気がしてきました」と言う発言が出た事がありちょっと笑ってしまいました。「俺の方がおかしい気が」してきて初めてそこに対等さが生まれたように感じた瞬間でした。
障害があることの自由と不自由を、その人はそこに感じたのかもしれません。
「わかってあげる」「わかってもらう」という、崩し得ない上下関係が、悲しいですが、この社会にはあります。
その状況で「垣根なく」「ボーダーレス」とかいくら言われても現状ではそれは理想論でしかないと思うのです。
「上下関係はない」というのは、社会の側にもそれが実装されて初めて言えることではないでしょうか。希望であれ(いまはまだ)現実になり得ていないのですから。
…でもそういうふうに穿って見る自分を、さほど好ましくも思えていません。素直に「そうだよね!」とキラキラした顔で言いたい気もするんです。
なぜ、なぜ、なぜ、といつもイライラしながら問いつづけています。
そうしているうちに発見があり「なるほど」と膝を打ったりして、また別の「なぜ」が生まれ、憤りは連鎖する。
止む事がない鎖のようになっていますが、それで良いんだろうと思います。
憤りは希望の種。楽しいことではないけれど、その鎖でイライラしならないと切り開けないものがあるような気がします。


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