朦朧日記 – 2026年7月①

海のようなブルーの中で耳を澄ませている人。周囲には魚のシルエットが泳いでいる。 朦朧日記
海のようなブルーの中で耳を澄ませている人。周囲には魚のシルエットが泳いでいる。

7月12日

1日で、下は20代、上は90代までの人と話をした。すごい。
いろんな人と話をしていると、本当に知らないことがたくさんあり、勉強になる。その一方、私が話した日常のことが相手には新しい発見だったりもするから面白いな。

午前中「何かの役に立たなくても生きていていい」という話をしたけど、午後に行った場では「みなさんの役に立てて良かった〜」と私は言っていた。
“役に立つ”というのは、主体的にそう思うもんであり、他者から言われることじゃないよね。私は、人の役に立てたら嬉しいけど「人の役に立ちなさい」と言われたら「うるせ〜!それはアタシが勝手に決めるわ!」だな…。

本が出版されます

電子書籍のみでのリリースとなっていた拙著「解離性障害、なんです。」がとうとう紙の書籍になることに!
ようやく、告知を公開しました。やった〜!本当に長い道のりだった…。

「解離性障害、なんです。」書籍化決定!!|Tokin『コミックルポ 解離性障害、なんです』発売中
電子書籍のみでのリリースとなっていた拙著「解離性障害、なんです。」がとうとう紙の書籍になることになりました!!!! 書籍名は 「コミックルポ・解離性障害、なんです。ーちぐはぐ?回復ダイアリー」 です!!! 応援してくださった皆さま、本当にあ…

これを出版したのが去年ですが、この一年で本当に、世界は酷い方向へ進んでしまった。
切実さは、かなり増していると思います。
行き場のないひとりぼっちな誰かの心に、届きますように。

役に立ちたい!役に立ちたいです!!!!!!!!!!!!!!!

7月11日

国内の状況が嫌な感じになってきたので、まったり作っていた、脱ビッグテックガイドを仕上げることにした。
テキストがとりあえず、多分できた…。次のこともあるのでサクサク進めたい。

デジタルもアナログも、居場所だし生活

デジタルの諸々は、我ながら「なんでこんなことをしているんだろう」と思っているんですが、たぶん私は、人がいる場所(公共?)が何か見えないものに左右されていると言うことに怒っているんだと思います。

巨大デベロッパーが管理する街の空気も嫌いだし、困ってない人“だけ”が使えるように街を綺麗にするジェントリフィケーションも嫌い。スマホやネットがないと生活できないようにさせられていることも嫌。
で、さらにそのネットの中の挙動まで管理されているのは本当に、嫌!

もともと、自分の本も含めて、リアルではない場で人が集まることを模索していました。
で、その過程で「どうやらSNSなりプラットフォームの仕組みに合わせないと人に見てもらえないらしい」ということに気づいて、イライラし始めたのですね。だって私は見てもらいたい人や、来てくれる人の方を向きたいんあって、プラットフォーマーのご機嫌を伺いたいわけではないから。
なんで毎度毎度、明確に提示されない謎のルール(アルゴリズム)をこっちが探って、それに合わせなきゃいかんのだ!むきー!
そこでまず、資本家が作ったデジタル牧場から脱して場を作るには何ができるのか?と考えて、いろいろ作り始めたのでした。

あと私は一応、社会が良くなる方へ向けてものを作りたいという意思があるので、誰かの権利を無視したり搾取をしている場所から発信をするのは違うだろう…とも思っています。

そういうのがそもそもの発端でしたが、こっちが模索しなくても、追い立てるように日本政府が国民の生活をどんどん自由とは真逆の方に向かわせていますね。「どうやったら脱せるのかしら」というより、脱さないとどんどん露骨な搾取に遭う環境になってしまったので、なんか目的が当初と若干変わってきてしまいました。

メンタルヘルスについてのお仕事から、居場所づくりに向かい、居場所の構造問題に向かい、もともと予定していた方向とは違くなっていますが、なぜか、間違えていないだろうという感じがしているので、もう少しこれで行ってみます。

7月10日

仕事などで外に出たつもりが、立ち寄った古着屋さんで何かが目覚めてしまい、買い物をしてお茶をして、普通に楽しい外出になってしまった。おっとっと!でもこういう余白が大事!
で、外でやるつもりだったタスクはどうしたんですか?あっ、それは、えっと…。

ローカルなアクションはいいぞ

夜、立川駅のペンライトアクションへ向かう。
国会前の大きいデモに行こうかなと思っていたのだけど、体力的な理由と「ローカルが盛り上がる方が良いのでは?」という気持ちからこっちにくることに。

立川駅前の写真。「no war」「戦争と武力の行使は永久にこれを放棄する」と書かれた横断幕が掲げられている。

子ども連れの方、お年寄りや、学校の大きい荷物を持ったままやってくる学生さん。ビジネスバッグからサッとプラカを取り出して駅からシームレスに集まりに入っていく、オフィススタイルの方。
それぞれの日中の生活から、こういったアクションに参加するのは「生活と政治が直結しているって感じで、すごくいい。

特別に来た人ではなく、そこに住む人が主体的に立ち上げる、違和感。
公共をつくるのは、資本家でも権力者でもなく、市民なのだ!いいねいいね。

7月9日

何かとバタバタしていた。仕事が溜まりに溜まってしまって慌てている。

そんな感じでありながら鬱のターンが来つつあり、このあいだ2日ほどニュースから離れていたんだけど、そのわずか2日で皇室典範の改定だの国旗損壊罪など理由のわからないものがあまりよく解らないままポンポン前進していて意味がわからない。
自分は双極なので“鬱のターン”なんだと思うけど、精神疾患じゃなくても鬱になるでしょう…。

でも夕飯が美味しくできたのでよかったです。わたくしの生活が第一。

7月8日

Xでひどい投稿を見て、バチバチの優生思想を振り回していた人がリプ欄に湧きまくっていたので片っ端から報告したら何人かが凍結されていた。社会貢献。

障がいのケア

自分が障がい者になってから、障がい者差別の事をいつもうっすら考えているけど、差別だとか排除とかを、一部の個人ではなくて、遠回しに国が行うようになってから、なんか誰に何を言ったらいいのかよくわからなくなってしまった。
道半ばの取り組みであればそれに意見するけども、取り組みを放棄したり露骨に切り捨てたり、守りきれないとか試みが足りないとかじゃなくて“守らない”という方向に向かっていると感じる。
市民が作る社会における問題ではなくて、道半ばの社会を放棄する、政治の問題になってしまった。
これまでだってそういう側面はあったけど、ここまで露骨じゃなかったんじゃないか。

弱者が置き去りにされてきたのは確かにずっとそういう傾向だったとは思うけど、今の政治の、権力や強者へのすり寄りやヨイショが、その下品な露骨さが、すごすぎて、引いている。

個人的には、現政権を批判するというか、もうこっちがこの政権の人たちを見捨てたい。しっかりしろと言う気にもなれない。怒る気にすらならない。
だけど、人を見捨てることはできないから、人を見捨てようとする政府に、結局ちゃんと怒るしかない。
要するに自民党が解散してほしい。

7月7日

20年以上!使い続けたAdobeを退会することにした。もともと、自分の用途にはオーバースペックだなと感じていたので、ようやく…。ClipStudioをいま試用していて、制作にはメディバンもProcreateも使ってるので、実際全然困らないと思う。

諸々サブスクを見直すようにしており、多分Apple Musicも退会する方向で今、なるべく使わないテストをしていて、実際使わずにいけそうなら今月で退会しようと思っている。
なんか色んなことにものすごく疲れてしまった。やりたい事ややるべき事がはっきりしたからというのもあるし、とにかく求めていなくても山のような情報が入ってくることに疲れた。考えることもやることも減らしたい。
もっと休みたいし寝たい。

7月6日

商店街にあった七夕の短冊に、子供の文字で「しんかんせんになりたい」と書いてあった。なかなかハードルが高そうな願い事だ。

社会は個人のかたまりなので

今の社会のこと、個人的なこと、それに巻き込まれる人の話とか、友達といろいろ話す。

しかし改めて話を展開させてみると“社会問題”とか言っても“社会”は無数の個人なんだよなと痛感する。

例えば「物価上昇で国民の暮らしが大変」って言葉も、分解すれば

「物価が上がって暮らしが苦しくなり、そうなると余裕がなくなり、人と会う機会が減ったりして、気が滅入ったり鬱っぽくなると、仕事が上手くできなくなったりもして、いろいろ滞るから洗濯物がたまったり食器が洗えなくなったり、部屋もちらかったりしちゃって、食生活も荒れがちになるけど、そうなると体調も悪くなるし、医者に行ったほうがいいんだけど医療費もかかるし…」

みたいな、それら全てを指すわけで…。

デモやいろんなアクションというのは、そこに入っていけない人の為でもあるんだよね。
自分が、何かしらの行動をしていると、そうしない人にイライラしてしまうこともあるんだけど、そこにいない人を十把一絡げに「無関心層」とか言ってまとめるのは、前向きなようであまりにも無慈悲だ。(大いに反省を含めて…)
批判の矛先を間違えてはいけない!

「行動しない理由も考える」とかいうのは、甘っちょろい視点だという人もいるとは思うし、こういうことに、俯瞰ではない個人的な感覚を混ぜるべきではないのかもしれないけど、いや、実際、結構大事だと思うよ…。
理屈としての“理解”ではなくて、思いやりとか優しさとか心遣いとかさ…そういう、漠然とした、義理人情的なものも…。人間は、システムではないので…。

7月5日

Adoのライブ

シルエットとはいえ、格子のはこの外で歌っている時間が長く、客席へトロッコで出ていく演出もあって、これまでよりかなりお客さんに近づいていた。PVで顔出ししていたのも話題になっていたけど、姿が全然わからなかった時より、姿が見えるほうがより一層「リアルに20代の人なのにこんな人間離れしたステージを…?」という不思議さを感じる。

ライブは、爆発的な歌唱力はもちろん、豪華な演出やサプライズの華やかさがありつつ、私が終演後に感じたのは“大スター”というより、ライブハウスでこつこつ頑張るアーティストのような印象だった。
普通、あれだけの規模のイベントで、いろんな企業やスポンサーが絡んでいればアーティスト本人の印象は薄くなりそうなものだけど、Adoの場合、規模の大きさがかえって、本人の地道で謙虚な努力をあぶり出していたのだと思う。

理解を求めたり求められたり

(※Adoの話とぜんぜん関係ないです)
大体のケースにおいて、障がいのある人が何に困るかは、聞かないとわからない=理解のために当事者の努力が必要だけど、健常者は健常者についてほぼ説明しなくても良い。
少数派はわかってもらう努力をしないといけないのに、多数派は理解や歩み寄りのためにそこまで努力をしなくて良いというの、すごいわかりやすく不公平だよなあと思う。

普段、少数者側の立場から話すことも多いけど、それよりも(だからこそ?)、自分が多数派に在るとき、そうでない人から話を聞く時、すごく神経を使う。「〜というのは〇〇ということ?」とか尋ねながら、力関係とか搾取とかいう言葉が頭をよぎる。
なんか、すいませんいつもいつも、少数派にばかり負荷をかけて…という気持ち。

7月4日

下北沢でにしなうちこさんのワークショップを見に行く。

反戦をはじめとした、メッセージのパッチや、それを手作りできるコーナーも。素材選びのセンスが素敵。エトセトラブックスでZINEを買ってお店を後にする。
ここで話した内容を、午後にまた別の場面で話すことがあったりして、こういうリンクはなんだか嬉しい。つながってるなあ。

7月3日

喫緊の問題が多く、自分に焦りがあるときほど人への伝え方もそれを反映したものになってしまう。
ここ数ヶ月を振り返ると、言葉の選び方が雑だったなという反省が多い。
自分に焦りがあるときはその不安から、共感を得られる人ばかりの方に寄って行ってしまう。そういう相手は安心だし、安全な場に身を置くという意味で、自衛の一種でもあると思う。けど、そういう関係“だけ”というのはヤバいんだろうな。

先日、アクティビズムの活動をしている人に「意欲的にやってるとやっぱり、いろんな考えの人とぶつかる機会も多いですよね」と聞いたら苦笑いと共に「活動が広がるほど、濃度の濃い仲間関係になり、違う意見の人と会うことが減ってしまって…」と話していて、あー、そういうこともあるのかあ、と思った。

テキストを書きました

繊細さや生きづらさの変遷についてのおぼえがきです。

弱く在ること
様々なマイノリティ属性を持つ人に対する目線はすごく進んでいるなと感じます。昔は、大人しく息をひそめるか、コンテンツ化するかの、ほぼ2択だった気がするのです。

いまの人の繊細さや丁寧さを「繊細過ぎでは」と感じることも、ないとは言えませんが、その裏には「自分が20代の頃にもそういう繊細さがもう少し尊重されてて欲しかったなあ」という悔いが在るような気がしますね…。

7月2日

何かの被害者が、別のトピックの加害者になる、というテンプレみたいな事例にちょっと前に巻き込まれてしまい、しばしば思い出しては、同情のような怒りのようなドロドロした気持ちに飲まれてしまう。
「加害は連鎖する、ってホントなんだなあ。」と友達に話したとき「でも加害は加害でしょ」と断言されて、あー友達って素晴らしいなと思った。

自分が受けた理不尽をふと思い出してはギリギリしてしまう。バネにしてやるという気持ちとなかったことにしたい気持ちがある。

7月1日

スマホの画面保護フィルムを貼る。
サブディスプレイとメインディスプレイを併せて1時間近くかかってしまったんだけど、画面の割と目立つ所にミッキーマウス型の気泡ができてしまい、気になってたまらない。
でも1時間かけたから認めたくない。
これは気泡じゃなくてミッキーマウスなんだということにしたら良いかな。(良いとは)

出ていけるもの、そうでない場合

何か始める時にXにアカウントを作ったらスタート、みたいなのやめてほしい。
Xで書いてもいいけど他のところにも書いてほしいし、企業や団体やオフィシャルなプロジェクトは、ちゃんと公式サイトを作ってほしい。 プラットフォーム依存の発信はそこにいない人を除外する。

あとLINE公式アカウントとfacebookページも…。 LINEはLINEユーザー前提だし、Facebookページは、ログインしていないと何も見えないので…。

とはいえ、ですよ。
XやMetaについて、ディストピアだとかデジタル農奴云々だとかいうのは、個人的には概ね同意なんです。私もやめたいのです。
しかし、知っている範囲だけでも、SNSでしか交流ができない人が何人もいるので、そう簡単に、批判も切り捨てもできないなあという思いがある。Googleも生成AIも。

それがあることで暮らせている=それが出てくるまで動けなかった人に、何を言えるかよくわからない。
ツールの功罪を伝えることすら無責任なんじゃないかと感じる。トー横に集う若者に「危ないから家に帰りなさい」と言うのと同じような感覚。他の選択肢が容易にとれないからそこにいるのに、GoogleやAIの危険を問うて「だからやめた方がいい」と移動を促すのは単なる脅しであるような気がする。
現実的には、安全な代替案があるとベストなんだろう。
広い視野で倫理的に見ることと、いま目の前の人を見ることは分けた方が良い。

自分の症状がある程度安定してきたからこそ最近、改めて思うのだけど、心身がすごく難しい状況にある時の目線で外を見ると「普通」はあまりにもハードルが高いのだ。
その「普通」に悠々と立っている人の目線から社会を語られても「そりゃ普通の人はそうだろうけど」になってしまう。自分と関係ある気がしない。でもそこに立てるようになると、なんとなく忘れてしまうんだな。
実際に、「持つもの/持たざるもの」というのはもちろん大きい。しかし、そもそも持つ手がない、その主体すらあやふやだったりすることもあるのだ。

解離や躁鬱が本当にどうにもならなかった時、自分のシルエットの部分だけ、きれいに世界が切り抜かれて空洞になっているような感じがした。私は存在しているけど、私の中身はなんにもなく、世の中と自分は一切関係がない感じがした。世の中もまた、私を見えていないだろうと思った。
私はもっと、あの目線で外を見ないといけない気がする。

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