
1月29日
デジタル日記を更新しました。メッセージアプリ探すの楽しい。
いろいろといじっている旨、夫に話したら「先端のデジタルスキルでテクノロジーのイノベーションを起こしインタラクティブなアクティビティを生み出すビジネスパーソンだ」と言われてゲラゲラ笑ってしまった。
は?なんて?
「私たちも戦争を止める方法を考える」展
ニヒル牛へ、展示「私たちも戦争を止める方法を考える」を見に行く。

「無」と書いてあるそれぞれのコマ(顔)を裏返すと…。
↓は購入したもの。

氷国青年団さんの「NO HATE」バッヂ。
「3.5%」というのは、ハーバード大学の政治学者、エリカ・チェノウェスが発見した「人口の3.5%以上が関与する抗議行動は必ず何らかの変化を生んでいる」という法則なんだそう。
NO HATEの3.5%のひとりになりたい。
もう一つは、戦争体験を経た方の体験談を語り継ぐ「次世代の語り部」をされている、牧田沙有狸さんの冊子「次世代の語り部の思考実験」。
少しずつ読んでいますが「語り継ぐとはどういうことかというのを丁寧に紐解いていてすごく、いい。真摯な筆致に引き込まれる。
作家さんそれぞれがこの展示への参加を通して、内側の葛藤を、作品という形で外に向けているんだなと、セラピーを見ている様な感覚になった。
誰もが主人公か
排外主義の人たちの声を見ていると「誰もが主人公」という考え方は結局「ほんとは主人公になりたい」という人の欲を塞ぐことにもなるんだろうなあ、と思う。
主人公になれない不満があっても、それを「誰もが主人公」という約束に向けたところで構造ごと変えるのは大変だし複雑。だから自分のチーム外に設定できる敵を決める。
でも、チーム外の人を排除した所で問題はチーム内にあるから不満は解消されず、チーム内で敵認定できる人を探して「この人はチーム内にいて良い人間ではない、チームから出すべきだ」という感じなのかな。
実際、問題の根拠は「誰もが主人公」どころか明らかな主人公(物語をリードする権力)があり、それが「私たちは皆を支える立場ですよ」と利他的な顔をしつつ、実際は利己的な動きをしている事にあるのだと思う。
でも巧妙に利己的であるから、その内情は見えてこず、不毛な“敵探し”が始まる…というような?
1月27日
Adoみたいな“がなり声”を出してみたくてやり方を検索して真似したら、Adoじゃなくてグーグーガンモみたいな声が飛びだしてきて自分の声に自分で爆笑してしまった。そんな想像しなくないですか?
どうしたらAdoが、ガンモに?
チェックですよメモ
『アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち』
2026年1月21日[水]─ 3月29日[日] 東京オペラシティ アートギャラリー

絶対私が好きなタイプの作品だ。
1月26日
何かに問題意識を持つと「自分はほんとに正しいのかな?」という気持ちと「正しいに決まってるじゃん!」と言う気持ちが両方になる。そのくらいが良いバランスなんだろうけど、後者に思い切り振れるか、問題意識に気が付かない方が気楽なのかなぁとか思う。排外主義の蔓延を見ながらオロオロする。
「自分だっていつ弱者になるかわからない」とかじゃなくて、弱い立場の人を踏みつけにする社会に住みたくないでしょそもそも…。人として…
1月25日
夫と雑談をしていたら、アニメではなく実在の“一休さん”を指す時に「ガチの一休さん」と言っていておもしろかった。
SNSわからん問題
「悪質な差別主義者で特定のSNSが荒れるから、カウンターが出来る人もこのSNSに来てほしい」という論を見た。なるほどなあ、と思う反面、それをすることで結局当該のSNSを盛り上げるっていうのは、どうなんだろう。
街の中だとか公共の場だったら別だけど、資本家によるバリバリ営利のプラットフォームでの公開プロレスに煽り煽られるのは、何に対するカウンターなのか?という…。
そんな折にこんな話もあり。

人とのコミュニケーションがこういうプラットフォーム上で成されているというのがしんどいな、と改めて思った。
資本主義で出来上がったプロレスリングの上で「アルゴリズムを理解してリーチ率アップ!」みたいなやり方に対する嫌悪感がどんどん増してしまう。が、それは、そのプロレスリングが現状、コミュニケーションの場としてバッチリ機能してしまっているからこそ湧く嫌悪感だ。そして、なんというか、自分も自著の宣伝などをしないといけないし、どこまで…何を妥協すべきか、そうでないか…。
1月24日
人と話していて、自分がいわゆる“意識高いリベラル界隈”の内輪盛り上がりに侵されるんだと気づいてはっとすることがある。もちろん良くない意味で。
例えば、Xで大切な関係を築いている人に「Xやめちまえよ」と言ったり、布団からやっとスマホをスクロールしている人に、スマホばかり見てるのを批判したり。
“今、ここ”の現実と離れた在り方を、やっと“ここ”まで来た人に言ってしまうのだ。
以前、そういうことをされてとても悲しくなったことがある。 「生きる力が苦しくて病んでも、病んでるなりの力がやっぱり必要なのか」と感じて、強烈に嫌だったのに、自分にもそういう無神経な部分があると気がついてものすごく恥ずかしくなった。
布団にいるしかなかった頃、同年代の人と同じ時間を過ごせなかった頃、自分は世界一最低だとみじめすぎて泣いた頃。そういう時間の自分と、ある程度歩ける様になった自分を、意識的に並走させる必要があると感じる。
1月23日
選挙のときになるといつも「政治を考える時間なんてないよー」と言っていた、持病持ちのシングルマザーの友達のことを思い出す。
その言葉を聞いた時「私のような“まあまあ暮らせている”人がちゃんと未来を考えないのは、この友達がこのまま日々に困り続けることであり、友達の子どもの未来がしんどくなることなのだ。」と、ダイレクトに気付かされて、ショックだった。
気づかなかった自分にも、その事実にも、友達の、心底疲れた顔にも。
1月22日
適当に作ったご飯が美味しいと、自分に生活力を感じる。今日はホッケの野菜あんかけを作りました。
解離性障害のサイトを更新しました。
小林エリコ「怒りに火をつけろ」

カウンセングを通じて、自身の生きづらさや複雑性PTSDと向き合っていく、著者・小林エリコさんのドキュメント。
キーとなるのはタイトルの通り“怒り”。
本書で描かれているエピソードはつらいものも多いので少しずつ読んでいたのだけど、少しずつ治療を進めるエリコさんの様子を、こちらもまた、少しずつ読むのは、“怒り”という暗い森を共に歩いているような感覚だった。
私は自分の怒りの感情を、フワ〜っと無かった事にしてしまうことが多い。怒りを受け止めるのは、怒った原因と向き合うことでもあるからとにかく不快なのだ。
とはいえ、怒りを抑えるために使っているエネルギー(=無駄な消耗…)の多さも解ってきていて「どうにかした方がいいのかもしれない」と思っていた所だった。
心理療法などによって「自分の感情を整理する」というのは、心がスッキリぴかぴかになるイメージがあるけれど、心なんて雑然としている方が自然なのだ。スッキリぴかぴか“ではない”自分で、しかし卑屈にならず堂々と歩いていくことを回復と呼ぶのだろうなと感じた。
怒りについて追記
夏くらいに買った「トラウマや不安、痛みって本当に不思議──でも私は大丈夫、と言える本」…という本をよく読んでいる(タイトル長いぜ)
漫画というには解説的で、カジュアルに眺めるには文字量が多く、なんとも説明のしづらい本なんだけど、マンガだけ眺めたり、文字を読んだり読まなかったり、なんとなく手に取ることが多い。
漫画といってもグラフィカルなイラストなので、感情移入するタイプのものでもなく、また、海外の作品だというのが、私にとっては程よい距離感になっているんだと思う。
本当に自分の感情が苦手だな。雲を掴む様で自分がどこにいるのかわからない。
どうしようもないと思うが、どうしようもないと思いつつ、まあまあ行こう。




コメント