対応をしないという対応

テキスト

Xを見ていたら「10数年前、安倍政治に反対の意を唱える人を冷笑していたツケが今なのではないか」と書いている人がいました。そして、それに対し「ああして、彼らを“アベガー”などと嗤ってきた人たちが今でも嫌い」というリプがついていて(多分同世代)ものすごく共感してしまいました。

私はこれまで、2011年前後の反原発運動や、2015年の安保法制反対運動の現場にリアルタイムで参加していました。
それに対して“めんどくさい人たち”のようなレッテル貼りをする人が、当時も今もいて、出会うたびに嫌な気持ちになっています。

反原発運動の中にも、安倍政治へ怒っていた人にも、確かに陰謀論化している人はいました。しかし、おおかたの人が真面目に考えた結果起こした行動を、端から笑う感覚には全く共感できません。

確かに、現状の高市政権はものすごくヤバいです。でも突然ヤバくなったわけではなく、こうなるように誘導されてきた結果でしょう。

デモに行くと「今はペンライトとか個性的なアイデアがあって、参加しやすくていい。左翼的な『〇〇はんたーい!』みたいなシュプレヒコールはちょっとね…」などと言う人を時々みかけます。
若い人は過去を知らないから仕方ないのですが、30代後半以降でありながら、そのようにして、過去の運動を馬鹿にする人のことを私は内心、かなり苦い気持ちで見ています。

シュプレヒコールや前時代的な運動のあり方に入りづらいという気持ち自体はわからなくはありません。ただ、「今の政治はまずい」「今は参加しやすくなった」などと言って現場にやって来るあなたは「はんたーい!」のシュプレヒコール以外に何をしてきたのでしょうか?と問いたいのです。

「選挙で示す“しかない”」と、それがさも、分別のある大人であるかのように言う人もいます。しかし、決まった結果を多数決だから仕方ないとばかりに飲み込むことが「大人」なのでしょうか?
政府が設定した日程とメンツとスケジュールに従うのが、唯一の意見表明だというなら、それはあまりに市民の権利を軽んじています。
世論でも結果でもなく、自分の意見を自分で示すほうがよほど大人でしょう。(陰謀論やカルトに陥らないことは大前提として…)

だから「軽々しくデモに参加するな」とか「わかってない」とか言いたいわけではありません。何かに気がついて動くのはいつだって素晴らしいことだと思います。
私も、諸々を経る前は「政治的な話をするのはちょっとね…」なんて言ってましたし、今だって、ガチガチに理解しているわけではなく、ずっと勉強中です。全てのアクションに参加できるわけないし、仕事が詰まっていたら何もしないし…。
行動するにせよしないにせよ、背景にはいろいろあるのでそれを責めるつもりもありません。

ただ「行動できなかったのは仕方ない」というのは、行動してきた人を否定する理由にはならないでしょう。

戦争を体験した人の話を見聞きすると必ず「そんなつもりはなかった」「そうなると思わなかった」と言う言葉が出てきます。
それは今も同じじゃないでしょうか。

いつの間にかOKになってしまった殺傷能力のある武器の輸出や、まるで身勝手な現政権のやり方は、そこに至るまでそれを止められなかった結果です。

いわゆる左翼的な運動は結果としてそれを止めてこられなかった、と言うのも(ある側面では)事実でしょう。
しかしそれをして来なかったら、状況は良くなっていたのでしょうか?
私の意見は「NO」です。

鳩を抱く少年のイラスト。透明の手が彼の目を覆おうとしている。

これは私が14年前に安保法制反対のデモで友人と作ったプラカードです。
様々な疑惑や問題への批判を「時間が経てば国民は忘れる」とばかりにスルーし続ける安倍政権へのカウンターのつもりでした。
鳩を抱く人の目は、今にも覆われてしまいそうです。

繰り返しになりますが、何もしなかった理由を問うことにあまり意味はないと私は思います。しかし、何もしないということは現状への消極的な加担です。そこへの自覚と、反省は持つべきではないでしょうか。

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