見えてなくても、あるものはある

イラスト。服の腕をまくる、赤い髪の少女。指先からブレスレットのようなリングがこぼれている。 テキスト
イラスト。服の腕をまくる、赤い髪の少女。指先からブレスレットのようなリングがこぼれている。

自分の被害体験について話すことはめったにないんだけど、最近になって、たまに人に言うようになった。そうしてみて気づいたんだけど、驚くほど「実は私も」という人が多い。そして、あまりにも加害パターンが似ているので、なんか面白くなってしまい「コピペか!」とか言って笑ってしまった。相手も笑っていたので、まあ、よかった。

解離やメンタルヘルスの話はこれまでもしてきたけど、やっぱり、私が話したら相手も打ち明けてくれた…という展開が多かった。被害の当事者が口を開く。その意味の大きさを感じる。
逆に言えば「味方と思える誰かがいない限り誰にも言いたくないのだな」ということも。

私は障害を持つことになったという今と、これからの未来については話せても、被害的な話はほぼしない。
話すことによって、何か励まされたり、妙なアドバイスをされる可能性とショックを考えたら、別に一生話さなくていいと思っている。

話すというのはそのくらい、重いことなのだ。
当事者の語りが説得力を持つからと言って、当事者に、語りや啓蒙を求めないで欲しい。と、いつも思う。私個人のことではなくて、社会の風潮として。それは当事者の善意に甘えているとすら言えるだろう。

極端に言えば、同じ社会に生きてる以上誰だって当事者だ。あまりに無邪気に質問を仕掛けて来る人や、正義の有無を問うて来るような人は、自分が座っているのが“安全な審査員席”なんだとわかっているんだろうか。
個人は社会の一部ではあるが、社会の役に立つからという名目で話を聞くことは、しばしば搾取と同じ構図になる。個人の傷は、役に立つためのパーツではない。

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