
7月5日
Adoちゃんのライブを見に、日産スタジアムへ!!!!!!最高だった。

檻の外へ出て歌っている時間が長かったんだけど、シルエットとはいえ前よりその姿が見えるようになっていて、どきどき。全然見えないときよりも、実態を少しずつ見せているからこそ、より一層「リアルに20代の人なのにこんな人間離れしたステージを…?!」というミステリアスさを醸していて不思議な感じだった。
理解を求めたり求められたり
(※Adoの話とぜんぜん関係ないです)
大体のケースにおいて、障がいのある人が何に困るかは、聞かないとわからない=理解のために当事者の努力が必要だけど、健常者は健常者についてほぼ説明しなくても良い。
少数派はわかってもらう努力をしないといけないのに、多数派は理解や歩み寄りのためにそこまで努力をしなくて良いというの、すごいわかりやすく不公平だよなあと思う。
普段、少数者側の立場から話すことも多いけど、それよりも(だからこそ?)、自分が多数派に在るとき、そうでない人から話を聞く時、すごく神経を使う。「〜というのは〇〇ということ?」とか尋ねながら、力関係とか搾取とかいう言葉が頭をよぎる。
なんか、すいませんいつもいつも、少数派にばかり負荷をかけて…という気持ち。
7月4日
下北沢でうちこさんのワークショップを見に行く。反戦をはじめとした、メッセージのパッチや、それを手作りできるコーナーも。素材選びのセンスが素敵。エトセトラブックスでZINEを買ってお店を後にする。
ここで話した内容を、午後にまた別の場面で話すことがあったりして、こういうリンクはなんだか嬉しい。つながってるなあ。
7月3日
喫緊の問題が多く、自分に焦りがあるときほど人への伝え方もそれを反映したものになってしまう。
ここ数ヶ月を振り返ると、言葉の選び方が雑だったなという反省が多い。
自分に焦りがあるときはその不安から、共感を得られる人ばかりの方に寄って行ってしまう。そういう相手は安心だし、安全な場に身を置くという意味で、自衛の一種でもあると思う。けど、そういう関係“だけ”というのはヤバいんだろうな。
先日、アクティビズムの活動をしている人に「意欲的にやってるとやっぱり、いろんな考えの人とぶつかる機会も多いですよね」と聞いたら苦笑いと共に「活動が広がるほど、濃度の濃い仲間関係になり、違う意見の人と会うことが減ってしまって…」と話していて、あー、そういうこともあるのかあ、と思った。
テキストを書きました
繊細さや生きづらさの変遷についてのおぼえがきです。

いまの人の繊細さや丁寧さを「繊細過ぎでは」と感じることも、ないとは言えませんが、その裏には「自分が20代の頃にもそういう繊細さがもう少し尊重されてて欲しかったなあ」という悔いが在るような気がしますね…。
7月2日
何かの被害者が、別のトピックの加害者になる、というテンプレみたいな事例にちょっと前に巻き込まれてしまい、しばしば思い出しては、同情のような怒りのようなドロドロした気持ちに飲まれてしまう。
「加害は連鎖する、ってホントなんだなあ。」と友達に話したとき「でも加害は加害でしょ」と断言されて、あー友達って素晴らしいなと思った。
自分が受けた理不尽をふと思い出してはギリギリしてしまう。バネにしてやるという気持ちとなかったことにしたい気持ちがある。
7月1日
スマホの画面保護フィルムを貼る。
サブディスプレイとメインディスプレイを併せて1時間近くかかってしまったんだけど、画面の割と目立つ所にミッキーマウス型の気泡ができてしまい、気になってたまらない。
でも1時間かけたから認めたくない。
これは気泡じゃなくてミッキーマウスなんだということにしたら良いかな。(良いとは)
出ていけるもの、そうでない場合
何か始める時にXにアカウントを作ったらスタート、みたいなのやめてほしい。
Xで書いてもいいけど他のところにも書いてほしいし、企業や団体やオフィシャルなプロジェクトは、ちゃんと公式サイトを作ってほしい。 プラットフォーム依存の発信はそこにいない人を除外する。
あとLINE公式アカウントとfacebookページも…。 LINEはLINEユーザー前提だし、Facebookページは、ログインしていないと何も見えないので…。
とはいえ、ですよ。
XやMetaについて、ディストピアだとかデジタル農奴云々だとかいうのは、個人的には概ね同意なんです。私もやめたいのです。
しかし、知っている範囲だけでも、SNSでしか交流ができない人が何人もいるので、そう簡単に、批判も切り捨てもできないなあという思いがある。Googleも生成AIも。
それがあることで暮らせている=それが出てくるまで動けなかった人に、何を言えるかよくわからない。
ツールの功罪を伝えることすら無責任なんじゃないかと感じる。トー横に集う若者に「危ないから家に帰りなさい」と言うのと同じような感覚。他の選択肢が容易にとれないからそこにいるのに、GoogleやAIの危険を問うて「だからやめた方がいい」と移動を促すのは単なる脅しであるような気がする。
現実的には、安全な代替案があるとベストなんだろう。
広い視野で倫理的に見ることと、いま目の前の人を見ることは分けた方が良い。
自分の症状がある程度安定してきたからこそ最近、改めて思うのだけど、心身がすごく難しい状況にある時の目線で外を見ると「普通」はあまりにもハードルが高いのだ。
その「普通」に悠々と立っている人の目線から社会を語られても「そりゃ普通の人はそうだろうけど」になってしまう。自分と関係ある気がしない。でもそこに立てるようになると、なんとなく忘れてしまうんだな。
実際に、「持つもの/持たざるもの」というのはもちろん大きい。しかし、そもそも持つ手がない、その主体すらあやふやだったりすることもあるのだ。
解離や躁鬱が本当にどうにもならなかった時、自分のシルエットの部分だけ、きれいに世界が切り抜かれて空洞になっているような感じがした。私は存在しているけど、私の中身はなんにもなく、世の中と自分は一切関係がない感じがした。世の中もまた、私を見えていないだろうと思った。
私はもっと、あの目線で外を見ないといけない気がする。


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