
11月3日
ミスタードーナツでアップルパイを食べた。
ミスドでドーナツ以外のものを頼むと「敢えてドーナツを選ばない私」というところに何か背徳感のようなものを感じる。でもやっぱりドーナツのほうがおいしいかなと思いました。
ディーン・ボーエン展
八王子夢美術館で、ディーン・ボーエン展。
とてもよかった〜!技法はさまざまながらどれも共通して、シンプルなフォルムや、プリミティブな完成が大きく強く、そして楽しく表現されていて、見ているだけで朗らかな気持ちになれる。
創作意欲の塊という感じで、エネルギッシュな履歴にも刺激を受けた。とってもよかったなあ。
プロパガンダアニメの世界
阿佐ヶ谷TALKING BOXで、高井ホアンさん、かに三匹さんのトークイベント。その名も「激突!反共アニメ対反日アニメ〜プロパガンダアニメの世界」。
有名なキャラクターがまさかの戦意高揚アニメに参加していたり、今のリテラシーで考えればステレオタイプな描写があっけらかんとギャグで示されていたり、それが“あえて”の悪意ある表現だったり、「いや、それはないだろ」と突っ込んだり、トンデモと大真面目が紙一重なところが、怖いのか面白いのか?
笑っちゃうんだけど、そのバックグラウンドに、政治的な含みがあるという二面性にリアルな「時代の空気」を感じた。
戦争や政治という切実な内容を、教科書的な言葉ではなく、あえてサブカルチャーやおもしろの目線から見るというのは新しい発見があってすごく興味深かった。
アニメやまんがと戦争の関わりを知っていくと、自分がいかに低い解像度で「戦争は恐ろしい。繰り返してはいけない。」と考えていたかと感じさせられる。
もちろん、いうまでもなく戦争は恐ろしいものなのだけど、それが当時どのように発信され、受け取られていたのか─いわば、反戦になる前の感覚を知るのは私にとって、“恐ろしい”の内訳について考えるきっかけになる。
11月2日
スーパーで買ったお菓子に入っていたクリームが、なんていうか“昔のお菓子”みたいな味(バタークリーム?)で、つい「友達の家で食べるやつだ」と言ってしまった。お土産とかに入ってる味。
映画「トゥルーノース」
北朝鮮の強制収容所での生活を描いたアニメ映画。
前知識なしに、やわらかいビジュアルだけで「北朝鮮の話かあ」と思ってなんとなく見たら重くて辛い話だった。こんな絶望を詰め込んだような現実があるのか。
状況の悲惨さもあるし、これを作りあげたことに敬服する。
北朝鮮のあり方については「なんかよくわからない国」というような、印象しかなかったので、人間の暮らしとしての過酷さが伝わってきて恐ろしかった。


先日、戦争と日本アニメについてのシンポジウムで、史実を作品とすることの意味について話していたのを思い出す。、また、そこで「ペリリュー」の原作者の方が、三頭身のキャラクターで戦争を描くことについて「きちんと伝えるために見てもらわないといけない。そのために、見る人が苦しくない絵が必要だと思った」とおっしゃっていたことも。
11月1日
のらりくらりとしていても、不意にやってくる感情のフラッシュバック?は、もうどうにもならなくて潰れる。早く過ぎますようにと願うしかない。
心理療法で真正面からどうこうしようとしない自分のせいでもあり、まあ、そう、自業自得と言われればまあそうですねって感じだ。
先日「自業自得な部分があることと、現状しんどいというのは別の問題だ」と言われ、そうだそうだ!と思う反面「いや然るべきツケが来てるだけでは…」とも思った。
あんな人もどんな人も、それぞれの道で幸せに暮らせるといいね。私もまあ、ここでなんとかかんとか。
ロイヤルホスト
10月は本当につらい月だった。
メンタルは最低でしたが、昨日景気づけにロイヤルホストでオムライスを食べたので、もういいです。いいってことにします。

ロイホは“ロイホのファン”という人がいるとなんとなく知っていたけれど、行ってみると確かになんとなく楽しい。
「昭和生まれが子供の時に見たかった“ごちそう”の景色」のような気がする。
10月31日
なかなか絵に時間が取れない。
今日はスケッチ、今日はラフ、今日はpsd、と少しずつ進めているが、す、少しずつすぎる〜!
居場所がいる
居場所についての本のレビューを見たら「私自身はマイノリティ性はなく居場所を探す必要がないので、勉強になりました」と書いている人がいてビックリした。
“居場所”が必要ない人もいるんだ。もちろん、その人の個人的な考え方とかもあるんだろうけど、そうか〜。
10月30日
ヘヴィ〜な話が連日あり、そのチクチクに若干あてられている。
「皆、なんとかそれぞれの道でそれぞれの幸せを見つけていこうな、アタイもアタイのフィールドで幸せになってみせっからよ」と思った。
それっぽいYouTuber
人間関係を紐解く心理学なんとかかんとか、みたいなYouTuberチャンネルを聞いていたらどうも「科学的に〜だそうです」と伝聞系の語尾が多い。おやおや…と思ってトップページを見ると、聞いたこともない「〇〇カウンセラー」みたいなオリジナリティ溢れる肩書きがついており、プロでもなんでもないことがわかって驚愕。
あまりにももっともらしい話し方をするので、その道の専門家なのだと勘違いしていた。
私は見たことないけど、陰謀系のYouTubeを鵜呑みにする人がいるのをリアルに理解した。確かにこういう話ぶりで来られると、鵜呑みにしたくもなるなあ。なるほどな〜。
士気の上がる電話
朝から友達と電話をする。午前中に話すにはずいぶんハードな内容だったけど、昨今の自分としては「やらねば」と士気の上がるトピックで、うん。そうそう。そうです。
色々あって最悪に落ち込んでるんですが、電話の彼女も含め、疎遠だった人たちとの縁が最近なぜか次々と復活している。過去の私から「落ち込んでる場合じゃないぞ!」とバトンを渡されているような気分。
みなさんありがとうございます。
10月29日
「午後に家を出る前に、午前中に仕事をできたら最高だな〜」と思っていたが、無事に成功した。イエイ、イエイ。
戦争と日本アニメ
日比谷ミッドタウンで、「『桃太郎 海の神兵』から『ペリリュー-楽園のゲルニカ-』まで 国産アニメーションは戦争をいかに描いたか」をというシンポジウムを聞きにいく。
たまたま昨日、「桃太郎〜」について書いた「戦争と日本アニメ」という本を買おうとしてネットを見たら偶然このイベントを発見、興奮して申し込んだのでした。
この間見た、近代美術館での展示と併せて、戦争が美術などの文化にどう関係していたかというのが流れでわかってとってもとっても興味深かった。これはあとでちゃんとテキストに書きます。
そんな折、知ったサイト。
手塚治虫が語る戦争と、彼の作品との関係。手塚治虫本人の語りを聞くことができ、電子書籍も読める。
こんな充実したサイトがあったとは!手塚氏は、例の「桃太郎〜」も公開時に映画館で見ていたとのこと。
全編に溢(あふ)れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれたのだ。
「おれは漫画映画をつくるぞ」
と、ぼくは誓った。
「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる」
ただ、今日のシンポジウムで聞いたところによると「焼け野原になり子供も皆疎開してしまった戦後の東京で、日本兵が大活躍する子供向け映画を見ることに矛盾を感じた」というようなことを語っていたのだそう。
10月28日
懺悔:衣替えまだしていません。
ニュースは体に悪い
自分が住んでた国が歪んでいくのを呆然と眺めている気分だな。絶望してはいけないのはわかってるけど、少数与党の首相が大事なことをバンバン進め、媚びへつらっていることに、絶望というよりポカーンとしてしまう。
石破さんの、あの戦後80年所感を聞いてから1か月も経っていない。
安倍元首相殺害事件の山上徹也氏の公判が始まる。安倍の亡霊。タイムマシンに乗っているよう。気持ち悪い。
体調が悪く朦朧としていた。寝ていると、世間への恨みつらみが醸造されて良く無い。ニュースは見ない方がいいなと思った。
10月27日
お惣菜売り場で、アスパラのチーズ巻きを買ったら、ラベルに小さく「チーズ“風”」と書いてあった。
私はチーズ風の何を食べたんだろう。
解離性障害のblueskyアカウント
を、作った。これ以上Xを耕すわけにはいかない。

Tokinwebの説明にこっそり書いているんですが、webとリアルと両方で関わり合える発信方法を探りたくて、サイトを作ったり配信をしてるのもその準備のつもりです。
(ここに書いていなかった。掲示板を作ったのです)
SNSが、人や社会に変な影響をもたらしてしまったというのはもう、皆んなわかったとおもうけど、だからといって大雑把に「インターネットは良くない」というのも多分違くて。
オンラインでもオフラインでも、どちらにも依存せず、どちらでも面白がれるような形を作りたい。
今はしっちゃかめっちゃかですが、始めたころよりは道が見えてきた?ような?
アニメ「桃太郎 海の神兵」
近代美術館で戦争画の展示を見たので「桃太郎 海の神兵」をまた見る。背景が詳しくわかるほどに複雑な気持ちになる。アニメーションは可愛いけど歴史としてはこわいし酷いんだけど、動きの滑らかさは、すごく良い

っていうか、こんな本があったのか!なんとピンポイントな!

戦時下で公開された日本初の長篇アニメーション『桃太郎 海の神兵』。その映像テクストを精緻に検証し、作品の社会的な背景を探って、『桃太郎 海の神兵』の映像技法の先駆性・実験性と、アジア・太平洋戦争と日本アニメーションの関わりを明らかにする。
10月26日
付箋をつけまくって本を読んでいるが、実務的な要件ではなく「わ〜、わかる〜!」みたいなところにも付箋を貼っているので、あとで見返すと「なんでそこに貼ったんだろう」という部分がたくさんある。
すきまを埋めない発信
スキマ時間にとかなるべく目につくようにとか、余暇の奪い合いみたいな発信をするのをやめたい。
無限の供給から降りた先で自分の言葉を書きたい。感情が情報に上書きされない場所で対話をしたい。
情報を目の敵にせずとも「ちょっとここ落ち着かないから場所変えます?」くらいの。戻りたければ戻ればいいけど、脇道に静かな場所があったらいいから、そういうものを作りたい。
私はリアル居場所は作れないけど、そのような「そこそこ保留にしつつ死なない」ための場所を別の形で作りたくて、「解離性障害、なんです。」もそのつもりで書いた。(ので、本になってくれないと困る😭)
売れれば本になれるし、本になれたら、今よりもっと色んな人の屋根になれるのです。ううう、そうしたいんだよー。そのために書いたんだよ〜〜〜。
…さておき、結論を急ぎ、承認を渇望し、即レスを誠実さとするよーな、雑な感覚から本当にもう離れたい。
自分の気持ちは自分の中でちゃんと育てて考えて、咀嚼したい。早い人ベースのコミュニケーションがつらくてたまらない。
掲示板ができた
というわけで、SNSをやめる先が必要だと思ったので、作りました。
word pressで自作しようともう四ヶ月くらい試みていたのですが、一向に出来上がらないので、広告の少ないレンタル掲示板を探していたのです。
woxというサービス。広告がないけどちょっと重い?動かしながら考えよう。
10月25日
午前中に外出。「お昼ご飯作るのめんどくさいな」と思いながら歩いていたら、いつもは駐車場になっている場所で唐突にイベントが開催されており、憂鬱な雨の向こうに目を凝らすと「焼きそば 100円」の文字。疲れて幻を見ているのかと思った。ごちそうさまでした。
ボランティアとは
市区町村がやっている催しや、市民活動の場に時々足を運ぶんだけど、行政がやるような事をボランティアチームがやっていたりして驚くことが多い。
街の環境保護に取り組んでいる団体の人と会う機会があったんだけど、ひとしきり話したあと胸を張って「全てボランティアでやっています!」と言うので、立派だなと言う気持ちと、「(資金も持ち出しで?)」という驚きとで、なんか複雑な気持ちになってしまった。
助成金とかもらってるんだといいな、と思ったけど、ああいうのも受けたら受けたで制限があるようだし…。
活動を続けるというのは…難しいのだな…。立派です(結論)
映画「バベルの学校」
上映会があったのでなんとなく見に行ったんだけど、すごく良かった。
アイルランド、セネガル、ブラジル、モロッコ、中国…。世界中から11歳から15歳の子どもたちがフランスにやって来た。これから1年間、パリ市内にある中学校の同じ適応クラスで一緒に過ごすことになる。 24名の生徒、20の国籍…。
果たして宗教の違いや国籍の違いを乗り越えて友情を育むことは出来るのだろうか。
教師の語りやナレーションもなく、子どもたちの悩みや会話、衝突や反抗をそのままにうつしているところが良かった。大人の解説目線がないぶん、子供たちの気持ちの変化や動きが伝わってくる。
10年前の映画ではあるが、右傾化、保守化が進む今だからこそ、人と人との関わりとして国籍や背景や人種の違いを考えたい。
10月24日
人と話す。せつせつと真剣な相談がしたかったのに、おもしろおかしく話したので、おもしろおかしい話になってしまい「いやー、参った参った!んじゃ!またっ!」みたいな感じで別れてしまい「そんな軽い話じゃなかったのに」と落ち込んだ。
東京国立近代美術館「記録をひらく、記憶をつむぐ」

戦争画(戦争記録画)の展示。戦禍の中で、また、戦後に、絵画や漫画がどのような位置付けで戦争を描いてきたのか改めて知ることが出来、勉強になった。自分の中で長く疑問に思っていたのだ。
むごい歴史の数々。そして戦後、それを風化させまいとしてきた人達の記録に胸がつまる。自分たちもこうあらねばと思う。
原爆被害を受けた女性の作品を見る。亡くなった愛娘を自らの手で火葬する現場を描いた絵。端に描かれた言葉は「ごめんなさい」だった。
その後開いたニュースにおどる「防衛費増額前倒しへ」「外国人問題」の文字に、展示で見た作品や解説パネルの数々がフラッシュバックする。タイムスリップして戦前に戻ってしまったかのようじゃないか。
10月23日


日野市の、ネット上の居場所作りへの取り組み。市外からも参加できるそう。
前にバリバラ(ハートネットだったかな…うろ覚え)でもやってたけど、一時的な場としてのメタバースってとても良い気がする。
と、思って日野市のサイトを見たら引きこもり支援をだいぶ積極的にやっていた。

来る場所、行く場所、行かない場所
前に、ひきこもり界隈の集まりに行ったとき、当事者の人に「ひきこもりでも行ける場所じゃなくて、他の人が普通に行く場所に行きたいだけなんだ」と言われたのが、何かずっと心に残っている。
「ひきこもりの人/そうじゃない人」の線引きに葛藤してきた痛みが透けて見えるような感じがしたからだ。支援や制度につながる中で、ケアを受ける側/提供する側、という関係性に憤りを感じる場面も多かっただろう。
「みんなと同じじゃなくていい」という言葉は時に「あなたは、みんなと同じようには出来ないんだから」という意味をはらんで当事者に伝わる。その時「みんなと同じようにやりたい」という思いを、憤りと共に飲み込む当事者は多いだろう。
生きづらさの話をしていると「みんなが来られる場所」「みんなが行ける場所には行けないor行きたくない」「人が少ないところなら行きたい」「そもそも行きたくない」とか、“場”の在り方についてすごく考える。
10月22日
「セルフケアが苦手で」と昔から言っていたんですが、なかなかそう言ってもいられず。
何をしても集中できないが、何もしないで落ち着くこともできない。うろうろ。ぐらぐら、ガルルル🐺
声を外に放つ
コツコツと…。
頂いた書き込みを見ているといつも「こんなふうに言葉にできるまでどんな思いがあったんだろう」とか「こんなふうに向きあって洞察できていてすごいな」とか、いつも元気…というか、安心をもらっています。
恥ずかしながら私自身は、抵抗が爆発的すぎて、傾聴カウンセリング以外の心理療法はほぼ何も実践出来てきていないんですが「かいちぐ」への書き込みや、マンガの読者のみなさんの言葉に、ずっと手を引いてもらっていいる感覚があります。足踏みばかりで進めないところから、いろんな人の言葉や思いを見て、“足踏み”から一歩先へ、また立ち止まりつつ、また一歩先へ。私ももう少ししゃべってみたいな、いいかな?…そんな感じ。
思い出して苦しくなる事も、それを安全な場でシェアできると「安全な場につながる事ができた私」という成功体験になるのだな。
と、やっとわかってきた。嫌な経験も、それを安全な場で話せると「謎の記憶」から、「話せる程度には向き合える記憶」というフォルダに移動させられる。…といいな。
だいじょーぶ大丈夫。何も出来なかったわけじゃないし、これからも出来るかもしれないし、それまで自分を甘やかしたい。許されたい。
10月21日
小さい大福とかおまんじゅうが入った、スーパーで350円くらいで売られている和菓子アソートが好きです。
私が買っているのは「ともだちのわ」という商品です。名前が良いでしょ。
ラジオを更新しました
第3回のテーマは“もっともサボっている状態”についてです。「サボりについて」じゃないところがポイントですよ!
今回はおたより募集をしております!あなたの“サボっている状態”について、ぜひ教えてください。
気になる本
気になってばっかりですね。

家庭という密室で、DVや虐待は起きる。加害者は決して特殊な人たちではなく、多くは職場や社会では適応しており「いい人」「やさしい人」と評価されている。なぜ、「普通の人」があのような暴力を起こしてしまうのか?その疑問を解くためには、加害者を知ることしかない。彼らを正面から見つめ、加害者像を浮かび上がらせ、再発を防ぐ考察につなげた。初めての本。
この視点の本が読みたかった。
被害へのケアだけではなく、加害の背景を私たちはもう少し学ぶ必要があると思う。
被害はもちろんだけど、加害側だって、「加害するぞ!」というつもりでそうなる人は少ないんじゃないだろうか。「その時自分は、それが正しいと思った」とか、自分にとって問題のないことが、第三者から見たら問題だったとか、自分の加害性って、加害をしてからじゃないと気づきにくいような気がする。
10月20日
気がつくとぼーっとしてたり妙に緊張したりで落ち着かない。
落ち着くような言葉をとなえる、お香を炊いたり部屋を掃除したり、落ち着くために大忙しである。
目線
いろんな人に会ったり、その背景を考えるのって、自分のためでもあるのかもしれない。相手の目線を通じて自分を見る。自分がどう見えるのかを少し知る。
相手の目線が全部わかるわけではないけど、性別、障害、国籍、社会的立場…とかから「〇〇の人から××の人はこう見えることが多い」とかは、知ることができる。
もちろんそんな知識は参考程度の話。必須なのは「何はともあれ最終的にはちゃんとケアしますよ」という信頼なのだと思う。
思い出してみると、長く付き合いが続いている人とは、やはりそういう「まあ結局なんとかなる」みたいな土台がある。
とはいえ基本的には、人と関わることは、いくらか傷つけあう可能性を持っているんだろう。
「だからこそ覚悟を持つ」…とか、まー、そういうヒロイックなことを言おーとすれば言えるけど、傷は傷で、痛いからなあ。まー、難しいね。
生きのばし
点滅社のかた、具合が悪くてずっと大変そうだけど、私自身がまあ、今こんな感じだというのもあり、わかりすぎてわかりすぎて涙が出た。

社会のスピードがあまりにも速すぎておれはもう、数年前からずっとついていけていない 置いてけぼりにされ続けている
ずっと「いま考えてるからもうちょっとだけ待ってくれ」と懇願しているのに、「こぼれ落ちたくないのならはやく答えを出せ」と、社会からずっとずっと、そういう風に言われ続けている気がする
世界中が謎のパンデミックに襲われた時、小沢健二がひっそりと(?)『泣いちゃう』という曲を公開していて、それにボロ泣きしたのを思い出した。 つらいとか泣きたいとか疲れたとか、言えない感じがする。『泣いちゃう』を聞いた時「泣いて放り出したい」という気持ちが自分の中にあるのことに気がついてマジで泣いてしまった。
世界中のマイペースな皆さん、ついていけなくて泣きたい皆さん、なんとかやってこうな。
“手を繋ぐ”とか連帯とか、そういうコミュニケーションスキルが、私にはあんまりないのですが、まあ、まあ。目配せとかしよう。チラチラと、チラチラとね。




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