
AIについて「絶対全部ずっと反対!」とは思っていのですが、楽しげに使う人が増えるのを眉を顰めて見てしまいます。一方で「AIのポスター、見るとがっかりする」という声もよく聞くのに、使う人が増えることに「なんなんだろうこれは…」と思わずにいられません。
AIそのものがすでに環境や労働、人権への悪影響が強い。加えて、生成AIについては著作権の問題も言われていて、これは国内でも声をあげている人がちゃんといる。
法律に違反しているわけではないけれど、現状で法律違反じゃなくても、その法律自体が、クリエイターを含んだ国民にきちんと熟議があってできたものではなく、見切り発車で施行されたもの。また、生成AIによって創作のハードルは低くなったとはいえ、それは、例えるなら「商品から値札を剥がしたので、売り手がどう思ってるかは知らないけど、商品が使い放題になりました!」という感じのことで、それを「ハードルが下がった」とは言いませんよね。
生成AIで作られた看板やポスターを見て「難しいものを使って欲しいのではなくて、ただ「すぐに使わず立ち止まる」というだけの事が、どうしてできないんだろう」と遠い目をしてしまう。うーん、それだけ、一度手にしてしまった利便性は手放せないんだろうな…。
AIに限らず、テクノロジーやインターネットの進化が、人の「こうできたらいいな」「こうだったらいいな」という希望ではなく、それらを先取りした「こうだったら良いでしょ?」になっていることに気持ち悪さを感じます。
テクノロジーやAIに限らず、生活全体がそうなっていると言って良いでしょう。
街をあるけばどこもかしこも広告だらけで、スマホにもテレビにも、隙間という隙間に皆広告が挟まれている。
そのように情報を詰め込んでくるのに、タイパとか言って、詰め込み可能な容量を増やそうとすらされていっている。それは消費への異常な扇動であると思うけど、そういう環境に慣れて、それが当然になってしまうと、煽られなくても自分で情報を取りに行ってしまう。頭がパンパンでないと落ち着かなくなる。
しかもその割に、いろんな問題への“答え”も早く知りたいものだから、すでにパンパンの頭の、狭い隙間に、いいかんじにフィットする程度のわかりやすい(真意の定かではない)ものを“答え”としたくなる…。
挙句、さらには、考えるべき問いやその“答え”まで、資本や企業が誘導していく。
そのようにして、資本や一部の大企業の基準に(それとは気づかないうちに)生活を委ねて得るものは、果たして充実と呼べるのでしょうか。
確かに充実し、豊かになるのかもしれません。けれど、こういった構造で得る“充実”は、いわば資本家によるテクノロジーの庭を基準に、その中で享受する“充実”でしょう。これは個々人や、資本に限らない社会全体の豊かさとは違うように私には感じられます。
報道などでは「AIが暴走」「AIが関わっている」などで、まるで“AI”という生き物がいるかのように話されます。しかし、それを作り、動かし、開発しているのは紛れもなく人間です。そうである以上、進歩に身を任せることはその人々に“身を任せる”ことと同義ではありませんか。
私は、人の生活は人が作るものだと信じたいです。
AIやテクノロジーの進化に「全面的に抗え!」と言いたいわけではありません。また、それらの進化が与えている良い影響がたくさんあるのも知っています。
ただ、そういったものを作るのも、使うのも、活用するのも人間なのですから、それらに身を任せるのではなく、進化にも、また、それらを批判することも、人間がやっていくべきだと思うのです。
AIは生き物ではありません。生活を作る主権者でもありません。それらを担うのは、考え、動き、引き返すこともできる、私たちなんです。


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