
目の前の人が言う“弱者”や“困ってる人”に、ここにいるはずの私が含まれてないのだと気づくことがある。
逆に、「障害者だから」と直球の言葉で甲斐甲斐しく手を貸されたこともあり、人の中で“無難”であることはかくも難しいものかと考えさせられる。
出来ないことを説明するのが難しすぎてつらい。最低でも、出来るって事にしないのがギリギリやり得る抵抗だろうか。
自分の生きづらさや特性について、解る人しか解らないような内輪のトーンで話すのは良くないなと思いつつ、解らない人に、解るまで説明するのは胸が痛くて続けられない。
別に1から10までの理解は求めてないし、誰かを責める気は全然ないんだけど「普通だったらこんな説明なんていらないのかなぁ」と思うと、ヘナヘナと力が削がれる感がある。その諦めを超える必要があるのはわかっているが、体力が切れてしまった。
「当事者の発信には説得力がある」なんて声を聞くたびに、そんなことよく簡単に言えるなと思う。寂しさや惨めさを堪えて声に出すことの重さを、意欲だとか、つながる力とかなんとか言う言葉であやふやにしないでほしい。
行動とマッチョイズムについて考える。静かに家に帰った人のことも。
頑張ったあとに息切れしても、息切れしたということを結局がんばって伝えないといけないのかな。
良い意味で、ぬるま湯な場所、クローズドな場や機会が必要なんだなと最近痛感する。
「ぬるま湯ばかりではな…」と思っていた時もあったけど、世の中の怖いところはぬるま湯を許さないことではなく、“ぬるま湯を標榜する熱々の風呂”が多い事なのだ。
生きることと消耗することがセットになっていることがしばしば本当に辛い。
それでもヘナヘナの手をヘナヘナのまんま繋げる、ヘナヘナの他者がいたりする事、それから、ヘナヘナでもまぁまぁここまできた自分に、少し救われる。
まあまあ、万物はまあまあです。
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