
8月31日
人に「己が道を行きよ!暮らしをDIYするのだ!」とここで言いつつ、私自身がそう出来てなかったなあと、ふと気づいた。
寄りかかったり自分で立ったりということのバランスがわからない。無理をすることと努力の違いはどこにあるんだろう。
イベント『こわれ者の祭典 – 依存症を考えよう』

生活の中で、ふいに襲ってくる自己嫌悪や劣等感に、恥ずかしくて心を掻きむしりたくなることがある。そんな自分も、それを感じさせる人も憎くなってしまう。「大丈夫だよ」「比べなくていいんだよ」。そんなふうに励まされる自分が惨めでたまらない。
月乃さんの朗読「場数」を聞いたらそういうめちゃくちゃな気持ちを思い出して涙が出てしまった。
これはちゃんと、noteに書こう。
気持ちは全然大丈夫じゃなくても、先行きは大丈夫、
全部ワタシの場数だ。
今日のおんがく
8月30日
朝起きたらいきなり「賽の目斬りのトマトときゅうりをごま油と醤油で和えたものを載せた、冷たい蕎麦」という画像が思い浮かんだので、作った。
神の啓示かと思ったけど、昨日見たレシピサイトの画像を思い出しただけだと思う。
生きられなくても死なないということ
うまくまとまらないんだけど、自殺率がどうとか、メンタルヘルスの問題がどうという話と、リアルに死にたさを抱えている人が現実にいるというリアリティって直結しづらいのかなあと感じることが結構ある。
というのも、私は「もう何もやりたくなくて気力もなくて、ベッドの中でスマホを触るのがギリギリな人」に話しかけているつもりがあるんだけど、その感覚が、自分が思っているよりはるかに人に伝わらないのだ。
何もしたくなくても見られるもの、読めるもの…と思って、自分の漫画の話をしていても自然と「どうやったらその状況を脱するか」という話になってしまう。
でも私は、状況を変える努力を散々して疲れてしまった人とか、色んな事情で状況を変える努力ができない人について話しているので、「そこから抜けるために」になると、もう話の趣旨が変わってしまうのだ。ただ、それを伝えることがあまりできない。
死にたい人が生きる方法と、死にたい人が死なないようにする方法は微妙に意味が違う。と、私は思ってる。でも、これを話すのがとても難しい。いや、話そうとすれば話せるんだろうけど「わかってもらえないんだ」と思うと心が閉じて何も言えなくなってしまうのだ。
「なるほど〜」「確かにもう一歩頑張れたらいいんでしょうが…」とか言いながら、自分の心がブルブル震えるのがわかる。「死にたい」と思う前には、死にたいと思わせた出来事があるのに、それをスルーされることに、それをスルーし得てしまう人なのだということに、ショックを受けるのだと思う。
「そういう人がいるのは仕方ない」という理性のアナウンスと「そこをスルーし得てしまうならこの人も私に攻撃をしてくるんじゃないか?」という不適切な警戒サイレンが頭の中で同時に響く。
話せばわかるかもしれないし、目の前の人に「加害してくるんじゃないか」とか思いたくないのに、閉じた自分を開けることができない難しさがさみしい。力のなさに凹むことばっかだな。
明日はこわれ者の祭典
恥ずかしさとダサさでキレそうになる出来事があったので、もう、明日がこわれ者でよかった。ダサさを笑おう。
結局自分はこわれ者からいろいろ学んだことが多いし、今も同じなんだと思う。
今日のおんがく
今の自分すぎて耐えられず笑ってしまった。まじで!

ホントは馬鹿騒ぎしたい ホントはチヤホヤされたい
みんなの輪の中心で男女問わずに仲良くやりたい
ホントはBBQも行きたい ホントはサプライズもしたい
その写真をFacebookにアップしてめちゃいいね押されたい!

カッコよく たまにはいきたい
やなこと パッと 忘れてしまいたい!!!
8月29日
カウンセリング。もう五年以上お世話になっている心理士さんに近況を話し「…って感じで、どうしたら良いか解らなくて…カウンセリングに行った方がいいですかね」と言ったらウケてくれて、よかった(何が)
いろんな人がいる
ある程度大人になってから、世の中にはロックを聞かない人や、アニメや漫画にあまり親和性がない人や、ライブハウスに行ったことがない人がいると知った。
この間あった人に、自虐で「20代は中央線アングラサブカルだめ界隈にばかりいたのでー」と言ったら、それは何のことなのかと聞かれて動揺してしまい「え!えーと、LOFTとか?」と返すもあまりピンと来ない様子。
その人が悪いとかじゃなくて、それが通じる人間関係ばかり作ってきたので「中央線アングラサブカルだめ界隈」はそれを知らない人に対してなんて言えば伝わるんだろうと疑問だった。
みうらじゅんとか大槻ケンヂとか言えば伝わったのかな。
気になるメモ
素晴らしい展示を見つけた。

弓指さんの作品、以前のトリエンナーレで見たとき、切実なものをユーモアや柔らかさを持って表現していて、それなのにガツンとショックを受けたのを覚えている。 戦時中のことを直接語れる人が減っていく一方、残された世代の人たちが語り継ぐ方法を模索していることにとても希望を感じる。 レポート見ただけで高揚してしまった。
Tokyo Art Beatの戦後80年特集、どれも凄くいい。

今日のおんがく


8月28日
社会派?のイベントやそのような読書が続くと、いつも徐々にキレ始めてしまい「もう嫌だ!世の中の役になんか立ちたくない!もっと単純に享楽的に生きていきたい!」と思うようになるんだけど、享楽的になって何がしたいかと言えば、カロリーが高そうな菓子パンを思うさま食べたいとかカラオケフリータイムで歌いたいとか、まあその程度の欲しかないです。
近所の美術館
夜の草むらを少年が駆ける絵を見て、突然、夜露のついた草の匂いや、真夜中の空を見上げた時の風とかを思い出してびっくりした。草が足にチクチクする感じまで肌が思い出した気がして、昼の美術館にいるのに、夜の河辺にいるような感覚がよぎる。作品の力だ。
友達が書いた作品を読む
言葉が、行く先々の人の中に音を響かせて進んでいる。のを、見ているような気分。
力や説得力というのは派手さでも大きさでもなくて熱と執念なんだろうと思う。
今日のおんがく

8月27日
ZINEじゃないところで見るZINE
大手のメディアでのZINEムーブメントの取り上げられ方を見ているとなんというか「市場価値のメガネで測っちゃったら、それはもう、新しいムーブメントでも何でもないんじゃないの…」という気持ちになってしまう。
私は全然、ガチで反資本主義!と言えるほどの芯がなく、気を張ってないとすぐ「それも商売になるんだ!すげ〜、世の中銭やで」とか思ってしまうチャラ井チャラ子なので、市場開拓されそうなムードを嗅ぎつけると色んな意味で、アンテナが向いてしまう。
別にお金を介することが悪いんじゃなくて、そこがマーケット化すると、お金が動いていることが価値になるででしょう。ZINEや個人制作の価値はむしろ、お金とは無関係なところで発達しているところにあると思うのに“市場として盛り上がっている”ことが価値になったら、魂が骨抜きになってしまう気がする。
8月26日
note更新。

8月26日
昨日は、図書館でイベント。人前でしゃべるのが久しぶりだったので、言葉がつるつる滑ってしまって焦った。
自分と月美さんでここまで来たサバイブスキルのようなものが全然違くて、目から鱗だった。
私は精神疾患と人生について「諦めながら生きてるとたまに良いことがあるから、今すぐ死ぬほど悪くはないな」の連続で生きていて、人にもそれを言ってたし、なんなら「みんなそうでしょ」とすら思っていたので、月美さんが「希望を捨てたくない」と話してたのはかなり驚きだった。私も内心の奥の方では希望を持ってるから生きてるんだろうけど、とはいえ、ビックリだったなあ。
同じように、私は「どうにもならないからどうにかしようとするのをやめる」という考え方で、それは当然だと思ってたので月美さんの、生きる方へ自分を持っていくという発想は完全に新鮮で、それも興味深かった。
前に「まあ何とかなる」と言ったら「何とかしなくても何とかなるからそんな事が言える。成功者バイアス」みたいに言われた事があって、その意味を時々考える。
「確かになあ」という気持ちと「何ともならない状況を諦めたのは“成功者”ではないが…」というのと両方。
あと、tokinwebみたいなことをしているので「いろんなことをしている」「発信の仕方にかなりこだわりがある」と言われ、なんというか、こういうあちこち手をつけてる感じって(仕事的には)あんまり良くないんだろうなあとも思った。まあ、こっちはライスワークではなくライフワークなので、まあ…。宣伝もあんまりしない方がベターなのかもしんないなあ。
8月25日
何もないところからイメージを作って、取り組んでみたらやらない事の方が多くて、出来る範囲とやりたいことを照らし合わせながら色々やってみている。
何もない時よりはマシだけど、新しいことをやるのって結構怖いんだなぁ。1人でぶつぶつ書くだけだけど“今までと違う”というだけでビビってしまう。
正解がない以上、失敗という失敗もないけど、漠然とした,ただの心配かな。
8月24日
別にSNSじゃなくていいんだけど、誰かに言いたいような言いたくないようなことを、見えてるんだかなんだかわからない場所に描きたくなりました。
自分でサイトを作っているとどうしても、仕事先に対してどうとか、誰かがみていたらどうとか考えてしまう。個人サイトとして作り始めたらその辺をいい加減にしてもいいんだと気がつき始めて、結構気が楽かもしれない。別に見せても見せなくてもいいなら、自分で勝手に書いて保存すればいいんだけど、この「誰かが見ているかもしれない」というのが良いんだろうな。
頭の中にいつも、ボトルレターのイメージがある。誰かに届くといいな、でも届かなくてもいいか、という言葉を送りたい。創作の欲なのかもしれない。
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