
相次ぐハッキング情報に驚いていたのも早くも前の話で、もはや「個人情報漏洩」「不正アクセスに遭い」という言葉が日常になってしまった。
よりによってデジタル庁が情報漏洩をしたという発表もあり、加えて、それらの対策チームは経産省がやるというのだというのだから、一周回って笑ってしまった。“デジタル庁”とは?
また、先日、防災庁が立派に立ち上がったがその第一声は「3〜7日分の備蓄を用意してください」といきなり自助を呼びかけるという“緊急要請”。
どうしていきなり“緊急”なのかもよくわからないし、熊本地震についてはいまだ避難所に残された被災者も多い。そんなのは少し調べればすぐにわかるのに、立派な看板を堂々と掲げて微笑む首相と防災相の写真は「見えない/見ないようにいい感じにする」という今のこの国の性格をくっきりと表しているようだった。内実のちぐはぐさなど、笑顔とドヤ顔でふんわり煙に負けたらOKなのである。

日本は“負けを認めたくない病”にやられすぎているんじゃないだろうか。
“負けを認めたくない病”の最高峰が今のイキり総理なんだと思うと支持率の高さもさもありなん、である。謝らない、認めない、帳尻を合わせて有耶無耶にする。数の力で押し切りまくる。
それがうまくいかなければ多額の広報費を使って、理解させる(というていでの意識の誘導)を行う。
日本人特有の、恥の意識の強さというのも手伝っているのかもしれない。「一度立ち止まって反省してから次に行く」という事が苦手だ。
それが強くなれば、努力の矛先は、改善ではなく、また、勝ちですらなく「負けてる感を感じさせない」ことに向かっていく。
今、この「負けてない感」のパテで塗り固められた壁は、いつまで壁としての役割を保てるだろうか。
…と、こう書くと絶望的だけれど、ただ、こんなふうであるからこそ、この先を照らす光は個人の手の中にあると私は信じたい。
呑気なのを承知で言えば、もっとポジティブに「個人の明かりが先を照らせる時間が来た!」と希望的な言葉ですら言ってしまいたい。

いまSNSでは、市民運動に取り組む左派を中心としたアクティビストたちが言葉の壁を超えてそのアイデアを交換している。また、国内でのデモやアクションは時間がたつごとにそのユニークさを強く、尖らせている。
もちろん、切実さから来る怒りの力ではあるが、すごいスピードと量で進む個々の連帯の力に、高揚せずにいられない。
私はそもそも連帯なんて得意ではないし、一人でフラフラしていたい性分だ。
「こんな状況で、みんななんで生きようと思えるのかな」と思っていた時間もあったけれど、死なない以上は生きないといけないし、そのための手綱をつかまなければならない。
そんな中、「私にも手綱がある」と日々気づかせてくれるのが私の場合、他者の光である。
国内外を問わず、様々なアイデアやそれが生んだ結果が光となり、私は私の手綱を発見する。決して依存させたり行動を強要する光ではない。握った手綱に、私は私自身の力を見る。
とはいえこう言う時よく言う「辛い時だからこそ人は頑張れる」みたいな言説が嫌いだ。つらくないに越したことはないし、その無邪気なポジティブさは「だから良かったね」という美談に容易に回収される。
だから、主語を小さく小さくして言おう。
私は、行動するあなたが放つ光が好きだ。
そして、手綱を見失っている誰かにも出会いたい。その手綱が放つ光はきっと私を、そしてその隣の誰かを照らすだろう。
縛り付けたり行動を規定するのではない、個々が個々として立つための繋がりが、いま強烈に社会に広がってると感じる。
繋がろう。そうすることで私たちは、繋がりを持つ前を上回る強靭さを持った“個”となって別れることができるはずだ。


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