
3月10日
気になっている本。

語られなかった男性たちの経験を〈転落〉の現象から見つめる、比類なき臨床社会学的試論。
単一のストーリーに落とし込まれて言葉の貧困に陥り、苦悩・葛藤する男性たちの経験を、社会的孤立、ホモソーシャル、加害者臨床、メンズリブ運動史、反差別への抵抗感、「有害な男性性」概念の批判的検討を通して見つめる。
ああ、これ本当に読みたいな。
性差による苦しみを取り除くのに必要なのは、女性の権利向上のみならず「男らしさ」「女らしさ」の偏見を取っ払うことなんだろうとよく思う。
こういうのって、苦痛ポイントを付き合わせた上で「ではどうしたらいいか」と話すのがスムーズなんじゃないかとよく思うんだけど、大体こうはなれないんだ。
男女のどっちがより苦しいかという話になり、私の“揉め事回避アンテナ”が警報を鳴らし、そして私は話を逸らしてしまうのだった…。ぎゃー!
履きたくない下駄をはかされて(=望まざる“男性性”)を背負わされて、それを特権だとか言われたらそりゃ怒りたくもなるよね。脱げるなら脱ぎたいもんな。
50 年以上前にもてはやされた、性別役割分業をベースとしたサラリーマン型の男性像は、少なくても自己認識の次元において、過去のものになりつつあるのだ。
男らしくなりたいとは思っていない男性が存在し、または増加もしている……。にもかかわらず、男性たちの自殺率は高止まりしているし、過労によってメンタルヘルスの不調にいたる男性は数多い。 『転落男性論-孤立、暴力、ホモソーシャル』 編集者からのひとこと・序章 一部公開|株式会社 金剛出版『転落男性論-孤立、暴力、ホモソーシャル』 西井 開著 四六判/並製/240頁/定価3,300円 3月11日刊行 編集者からのひとこと 『モテないけど生きてます』(青弓社)、『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書)、『どうして男はそ...
しかし正直なところ、私の周りはそういう「男性らしさ」に苦しんでいる人が多いので、この視座がいまだに共有されることが少なかったのはちょっと驚きだった。
ジェンダーのありかたによる生きづらさはまじでどんどん取り払われた方が幸せだと思う。救われてほしい。
解離性障害のサイトを更新しました
解離性障害のサイトを更新しました💭日常の気持ちやつぶやきのページです。

10月の投稿を、いま更新するという、驚きの時間感覚ですが…!数ヶ月分をコツコツ記録しながら英訳しているのでどうぞ、長い目でひとつよろしくお願いします。
3月9日
前に録画した、大友克洋が手塚治虫を語るという特番を見ていたら、それだけでビッグなのに、藤子・F・不二雄とかりんたろうまで登場してきて興奮しすぎて再生を一旦止めてしまった。
日曜美術館「私とベイコン 大江健三郎」
NHKの日曜美術館のアンコール放送。大江健三郎がフランシス・ベーコンを語る回。良すぎてなんかちょっと泣けてしまった。

「(ベーコンの作品が持っている)気持ちの悪い要素を見るには、見る側も相応の心構えが要る」というようなアナウンサーの振りに対し「気持ち悪い絵を見ているというより、人間がそもそも気持ちが悪いものなんだと知ることから始めたほうがいいと思いますね」と言っていて、すごく、ああ、私は大江健三郎のこういうところが好きだな…と思った。
わからなさをわからなさとして保持したまま、放置するのではなく葛藤し続け、共に在ろうとする。そういう姿勢がすごく好きなのだ。私もそういう人間でありたい。
「人間は、壊れ、滅びるものです。意識して壊れないほうに向かうようにしないと生きていけない生き物ですから」との言葉に、見終わったあと、「壊れものとしての人間」をいそいそと出してきて再読する。
なんかここ数日、真摯なものに立て続けに触れていて、背中を押されているようでもあり、試されているような感じもする。感受性の表面張力が試されている。胸のフチでふるふる溢れるものを、こぼさないように歩く。
アニメ「違国日記」

すごくいい…。あんなに繊細な感性を、あんなに丁寧に、しかしキャッチーに、さりげなく、しかし深く、えがけるものなのか。ショックなくらい、良い。
3月8日

“今年3月末までの配備が決まっている静岡県・富士駐屯地、熊本県・健軍駐屯地とも、地域が求める住民説明会は開かれないまま。配備期限があと1カ月半後に迫った現在も、「いつ配備するのか」という住民からの問いかけに防衛省は回答していません。”
“住民らから「これでは地下化して生き残るのは自衛隊だけであり、地上の住民は置き去りだ」との指摘が上がりましたが、防衛官僚は「重ねて申し上げます」と繰り返し手元の文書を読み上げるだけでした。”
全部ひどい。住んでいる町にミサイルが来るのに、いつ来るかも、そのルートもわからないなんて。
映画を見る
ご縁があり、ある作品を見る。継続して一つのテーマで活動をしていると、こういうものに出会うことがあるのか!と不思議だった。
光に向かうことの尊さは、結果的にそれにたどり着くことではなく、光を求めて闇の中で目を凝らし、その中で誰かの手に触れるその偶然性にあるのだと思う。
3月7日
演劇を見に、日本科学未来館へ行く。あのあたり、本当に、道と土地ばかりで、スーパーとか生活に使うお店が見えないのに、マンションがあるのがすごく不思議。あの周辺の人はどうやって暮らしているんだろう。
演劇「HIKU」

ひきこもり当事者とフランスのアーティストが共同で作った演劇(?)作品。あとでレビューを描くけれど、すごく示唆に富む作品だった。
終演後、アーティストによるトークイベントにも参加。言葉でのやりとりと、言葉ではないやり取りの両方について、対立ではない目線で感じられたのがすごくよかった。
これは2年前のパリ講演の際のレビュー記事。

ネットを見ていると、SNSの雑な言葉に苛立ってしまう。でも、必要なのはより良い言葉を知ることや言葉に向き合い直すことではなくて、言葉以外の表現をもっと拓くことなんじゃないだろうか。
帰り道、電車の中で、トークイベントで聞いたことや、作品の端々を反芻する。
作品に触れて、こうやって「あ〜!言葉にならないけど、わかる、そうなんだよ」みたいな気持ちになるとき、すごく心が満ちるのを感じる。
明確な言葉で得る納得とは別の、浸透するような深い納得というのが人の心にはあるのだと思う。
3月6日
AIに全部投げればやってくれるから便利だとか「こうすればGoogleで作業を完結できる!」という声を見聞きするたびに、複雑な気分になる。
いまのような時勢になったらいよいよ情報をアメリカの企業に渡すのはデメリットなのに…。
Googleはもう、いろんな観点から、ホントに無理of無理、危険待ったなしだと思ってるけど、使ってる人が多すぎてなかなか拒否できないし、仕事だとそれはチームの仕組みの話なので、私個人が変えようとするのとは全然違うから、まあ、一概に批判もできず、結局「なるほど〜」とかいう、ふわっとした反応をするだけになっている。
本「少女民俗学 : 世紀末の神話をつむぐ『巫女の末裔』」大塚英志
先日、漫画の講義で少女マンガが作った歴史について話していたので思い出して、何度目かの再読。
1970〜80年代の少女カルチャーにおける丸文字を「見られることを前提とした文字」と書いていて、なるほど…。
TikTokやInstagramを見ていると、自分で自分をどう思うかより、自分がどう見られているかが基準になりすぎで何か危うい印象を受けるんだけど、見せたい自分の演出にこだわりすぎるのはどの時代の若者も同じなんだなあ、と思う。
3月5日
都心へ出る。小腹がすいたころ、ピアードパパのシュークリームを歩きながら食べている人をぽつぽつ見かけた。
「クッキーシューの歩き食べなんて、クリームもクッキーもこぼしそう。でも食べている人が多いってことは、そこまで食べにくくないのかもしれない」と思って買ってみたけど普通に食べにくかった。
クリームがペタペタついた指で、かばんからポケットティッシュを出し、コートにポロポロこぼれたクッキーをはらいながら「みんな器用だな」と思った。
都心は、街中が全てがものを買わせようという空気で溢れかえっていてすごい。そしてそういう人が来ているのがまたすごい。「資本主義やばい」と思いながら、でも自分も流されて「うわ〜あれもこれも面白い、買っても絶対使わないけど欲しい」とか思いながら色々見て、そういう感じも全然、結構、普通に好きです。
3月4日
メルカリを見ていたら“レトロ★ロングコート”とか“レア!ステッカー”みたいな感じで“奇抜!ワンピース”と書いてる人がいて、妙に関心してしまった。
メルカリではあまり見ない表現だ。奇抜。
本『ビバリウム ーAdoと私』

Adoちゃんの、幼少期から今に至るまでののほぼノンフィクション小説。
興奮して一ヶ月前から予約していたのになぜか届かず、普通に本屋に買いに行った。
ファンの発作で記事を書いてしまいました。好きです!
3月3日
ラジオを聞いてると、言い方のやさしさ/厳しさはともかく、政権や総理への批判はしてるのに、テレビのニュースだと「難しい局面です」とか言って難しい顔をするだけで話を終わらせてる事が多くて、双方のギャップがすごい。
普段聴いてるのがラジオなので「こんなに毎日批判されてるのになんで変わらないの」と思うけど、テレビをメインにニュースを摂取してる人は見え方が全然違うんだろうな。
いや、でもシンプルに考えて、こんなにも、説明や議論から逃げて逃げて逃げて参っている与党を批判しないほうが変でしょ…。
気になる本
近代社会において、あらゆる差別は解消すべきものとされてきましたが、現実には「能力」評価に基づく差別だけは例外として残っており、それどころか社会を駆動させる原理として能力主義が機能してきました。 この「能力(できる/できない)」を問われ続けてきた存在に、障害教員(障害のある教員)があります。
エイブリズム爆発の発言にショックを受けることが頻繁にあるので…。き、気持ちが助かるヒントがほしい…。
Barbieの友達
Barbieに自閉症のお友達が登場したのだそう。

InstagramのBarbieアカウントを見たら、自閉症の方の家族からのコメントが多くて、あ、そういう視点もあるのかと気付かされた。
前に、車椅子ユーザーの方が、どうぶつの森に車椅子のアイテムが登場したのを受けて「私も仲間になれる!」と書いてたのを見た。私自身にはそういった見た目のマイノリティ性がないので「ああ、ファンタジーの中に自分を重ねられるキャラクターがいないと“仲間ではない”と感じるのか」と、ハッとした。
とはいえ、自閉症という、見た目ではわかりづらい性質を、Barbie──つまり、ファッション人形で表現するというのはすごいことだな。人形としての魅力を備えつつ、しかしファンタジーにより過ぎず、Barbieの世界観に落とし込むというのは大変だっただろうな。
幼少期に、ごっこ遊びの中に、多様なキャラがいるというのは結構その後に影響が大きいよね。
私の時代は、アニメなら「金髪碧眼の白人はまちがいなくいいポジション」というのが定番だった。私自身はそれにそこまで魅力を感じていなかったけど、なんというか、テンプレとして「金髪碧眼白人キャラ=特別」だったのだ。あの時にもうちょっと多様なキャラがいたらその後の認識も違かったような気がする。
3月2日
iPhoneが一向に小型化しないから痺れを切らしてAndroidに引っ越したのに、今度出るiPhone17eが希望にピッタリなサイズでしかも安くて、私はショックです。現実を認めたくありません。
いや、別にいいんです。私はAppleのデータ搾取エコシステムから抜け出すためにAndroidにしたんです。それで、可能な限りGoogleを使わないスマホ環境をね、作ろうとしたってワケ。小さい社会運動ですよ。そうなんですよ。
でもね、小さいiPhoneが出ると知っていたら──。
またテキストを書きました
私は夜中に目が覚めると突然文章を書き出す癖があるんですが、いちいちネットにアップしたら更新頻度がすごくなるのではないかと思ったので、やってみます。
3月1日
早起きするぞとどれだけ気合いを入れても9時より前に起きられない。
テキストを書きました
いろんな居場所に顔を出していると、本当にどこへ行っても「この場があって救われた人はたくさんいるんだろうな」と感じます。ポジティブな意味合いはもちろんだけど、ここがなかったら危うかっただろうという、切実な必要性も強く感じるのです。







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