
居場所がいるのは
精神障害の当事者の場に時々いくことがあります。
障害のことを公にしているとはいえ、どこか「生活に困らない程度ですよ!」という“ポーズ”でいることが多いので、そういう“ポーズ”を取らなくていい相手は気が楽。
連日嫌なニュースが続いていて、普通にしているだけで精一杯だなというのが現時点での正直なところだけど「大丈夫?」「大丈夫じゃないです〜」と言い合えると安心します、
いろんな居場所に顔を出していると、いつも思うのが「この場があって救われた人はたくさんいるんだろうな」ということ。
その場所のポジティブな意味合いはもちろんだけど、ここがなかったら危うかっただろうという、切実な必要性を感じもするから。
繋がれる相手がいること、そういう場があるのは大事です。
ただ、そう感じるごとに改めて、怒りや戸惑いも湧いてしまいます。この場を「必要なもの」というだけではなく「ないと困るもの」にしているのは何んだろうな?と。
理由は一つではないし、自分一人で考え得ることなんてささやかです。それはわかっているけど「そういう場があってよかったね」で完結させない態度は堅持しておきたいです。しつこく怒り続けた方が良いと思う。
困りごとの重さ
先日、SNSで(おそらく健常者の人が)「発達障がいの人は、周りに迷惑をかけていることがわかってるの?」というようなポストを見ました。そして、そのポストへ、発達障がい当事者の人が「わかってる。だから早く死にたい。」と返していて、心がグラっと揺れてしまいました。
“ぐらっ”の内訳は、悲しさであり、怒りであり、「だから早く死にたい」という声に共感した自分への驚きでもあります。
驚き…というか、ツッコミかもしれません。
「悲しい…って言いつつ、共感するんかーい」というような!(?)
障がいは、自分にとって困った要素ではあるけど、他の人にとっての困った要素にはしたくない。
「だから、困りごとは自分だけで完結させて黙ってたらいいのかな」と思っては「いやいや、そういうことではないでしょ」と思い直す。そういう逡巡を、物心ついた頃からずっとやっている気がします。
息をひそめたくない。後ろめたさを感じず、普通に息をしたい。生きづらさがあっても障がいがあってもなくても、みんな普通に息ができる社会であってほしい。だからせめて自分は、“息をひそめない障がい者”の頭数になっておこうと思います。
で、大丈夫?
とはいえ、こういう日記を書くとね、優しい友人などからメンタルを気遣うメッセージが来たりするんです。ありがたい!そして申し訳ない!だから言っちゃうんですよ、感謝と共に
「心配かけてごめんね!!そんな困ってる感じじゃないから!!大丈夫!!!」
と!
うお~~~~~~~~なんなんだ!お前(=私)は~~~~!!!!!
何が大丈夫なのだ!だいじょびませんよ!!!



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