AIを使うことと使わないこと

雲の上に座っている、猫の着ぐるみを着た人と、隣に座る猫 テキスト
雲の上に座っている、猫の着ぐるみを着た人と、隣に座る猫

 普段ネットやデジタルツール諸々を使っていますが、生成AIへは疑念があり、Xは無駄に怒りを煽るのでやめたい。個人情報収集しまくりのGoogleからもなるべく離れたいと思っています。

自分ではなるべくそうできるよう努力していて、いっときは周りにもそれを布教(?)していました。
ただ、最近はなんだか、そうも言い切れないなあというモードになっています。

「便利」って何だろう

 というのも、自分で意識したり、人に提案しているうちに、その利便性は、平均的な生活をより良くするだけではなくて、現状に問題がある人が平均的になれるためのツールでもあるということに、実感をもって気がついてきたからです…。
今更ですが…。

例えば、生成AIで簡単に絵を書いて「これで私も絵師だぜ」とか言われたら「いやそれは違うだろ」と思うし、本来なら自分で作るような書類をちゃちゃっとAIに書かせるようなのは、どうなの、って思っちゃうのです。

でも、障害ゆえにできない業務があって困っていた人が 、Googleの連携と生成AIで、これまでできなかったことが出来るようになったりしたら、それは全然、話が別ですよね…。

私だってXにブーブー言いながらそこで情報収集はするし、アンチGoogleと言いつつ、すごい方向音痴なのでGoogle Mapがないと非常に困ってしまいます。
そこに、個人情報を明け渡す危険性や、AIによる権利侵害の問題などの問題を照らし合わせることもできるけど、やっと平均値になった暮らしを、マイナスに戻すのが、正しいのかというと…?

ボイコットをしたり批判をするのは、その企業なり団体なり体制に向けるべきものであって、それを利用する人への非難とは別問題だろうな…と、最近は考えています。

怒る意味ってなんだろう

 かといって「仕方ないよね」と素朴に受け入れる気にもあまりなれないのは、当たり前のように、資本主義に人間が隷属していく、その流れに抵抗があるからです。

プライバシーを差し出してでも、怒りを煽るプラットフォームや、戦争に加担する企業の商品を使い続け、それを当然と受け入れてしまう価値観を、単純に「仕方ない」「そういうもの」とは思えません。

 お金になることや直接役に立つことを「良い事」としてシンプルに受け入れるのは、ある側面から見れば、 お金にならない/役に立たないことを不要だと見なすことに繋がります。それは、説明するまでもなく優生思想への一本道です。
“一本道”というか、AIの利便性の裏で搾取されている人や、環境破壊で生活が奪われている人たちついて見て見ぬ振りをして暮らしている以上、すでに、人を切り捨てながら歩いていると言って良いと思います。

 だからこそ、社会倫理的に疑問があるツールで、生きづらさをフォローしていくのは危ういんじゃないか?という思いがあるのです。長い目で見たら、それが、これからの自分の立場をさらに弱いものにするからです。

とはいえ今の生活は!

 と、ここまでもっともらしい事を書きましたが、いや〜〜〜、 難しい。
現実的には、 目の前の生活を、過不足なく送りたいのが本音。

私は障害者ですが、障害ゆえの困りごとはマジで一刻も早く解消したい。
自分で書いた事を一気に覆しますが、いま目の前の暮らしがままならない状態で 「社会倫理のあり方は…」とか言われても厳しいし、「Googleマップを使わずに、ジョルダンとかの地図アプリを買ってください」と言われたら、いや、でもジョルダンの地図アプリって年額4,000円くらいするし…。

AIを始め、新しいテクノロジーについてはいろんなメリットもデメリットもあります。
何のために利用して、どこを疑うべきか、また、どこまでを受容すべきか考えながら付き合う…というのが現実的な落とし所なのかもしれません。

 そんなわけで私は今日も、Geminiを便利に使う人や、Xで発信される大事な情報を見ながら「まあ、使うよね」と言ったり「よくない」と憤ったり、毒にも薬にもならないテキストを書いてみたりするのでした。
むむむ!!!

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