「この人のいう“ケア”には私は含まれていないんだろう」と思う場面が多く、厳しかった。
もうここが底だろうと思ってもまだ続きがあり、もうこれ以上(以下?)凹めないのでいい加減にしたい。
意見の相違などを”尊重”として話がぼんやりする場面に胃を痛めつつ、私もまたそこで返す言葉を持たなかったため、結局うやむやであることをそのまま受け入れてしまった。そういうことから始まり、そういう感じで終わった。
不躾なラリーにできればまだ良かったのかもしれないけど、いや、そういうことでもないか。
相手の意見を尊重することと、単純なノータッチはどう違うんだろう。
「あなたのため」などと言って、他者に触れない事が、触れたくない自分への、耳障りの良い言い訳になることがある。ある意味では健全で健康な境界でもあるから、厄介だ。
致命傷にならないからこそ、すれ違う度にいちいち傷つき続けてしまい、だんだん保身が優先になり、結果的によくわからない傷だけ残った。
「これも学びです(キリッ)」とか言えばそーなんだろうが、いやあ、もういいよ〜、学びたくないよ。

ケアとか包摂だとか声高に言う時、そのターゲットは「ケアすべきカテゴリの人」ではなくて、毎日を生きて、ご飯を食べたり風呂に入ったり、あくびしたりしてる、“ただの人”であってほしい。
例えば、私やあなたのような。
誰かを守りたいと言う気持ちを、遠くの誰かに想いを馳せるのと同じように、目の前の、何もなさそうな人へ、特に悩みがなさそうな人へも向ける。こんなささやかで簡単なことを、身近な人を目の前にするとどうして忘れてしまえるんだろう。
答えは簡単だ。「忘れているうちは、忘れていることに気が付かないから」。
これまで、不自然に疎遠になった人とか、消息不明になった人のことを「解らないけどなんか事情があったのかな」と思っていた。自分にとっては過去の話であっても、今はもうわからない“事情”は、解らない以上、自分に関わっていた可能性だってある。
どこかの誰かの引っ掛かりが時を超えてぶつかって来るような感覚。ああ、こういうカラクリだったのかあ、などと思う。
思い出すべき人は、思い出した時にはいなくなっている。
感傷混じりで掲げられる正義感に、気が遠くなる。憎みつつ、鏡を見ているようでもある。
反省すべきところなのか、怒っていいのかよくわからない。
キレてるんだか諦めてるんだか不明瞭な愚痴を友達に送る。ピュアな励ましと共に、ヒプマイのデカいスタンプが来て笑う。
飲み込まなくても、終わらせなければ続く。
生活というのは、タフだな。



コメント