
2016年7月に起きた、津久井やまゆり園での殺傷事件についての雑感 。
前回の続きです。

前回の日記の中にも書いたのですが、個人的に、あの事件で怖かったのは、出来事そのものはもちろん、ネットなどで噴出した、ここぞとばかりの(あるいは無意識な)障害者差別の言葉の数々でした。
というのも、私は精神障害を持ってはいるものの、割と早い段階から、生きづらさや障害について分かち合える“仲間”に出会えていたからです。無遠慮な差別に出会っても、仲間がいれば、それを話すことができます。
今思えば当時の私にとって、差別的な言葉というのは「とはいえ仲間内でケアできるもの」でした。今となっては、自分がいかにラッキーな環境だったかよくわかります。
ですから、事件を受けて噴出した、差別的な言葉や露骨な優生思想、障害者と自分を他人事のように線引きをする声はかなりショッキングなものでした。決して”仲間内でケアできる”レベルではなかったからです。
これを日常的に向けられている状態はさぞ恐ろしいものだろうと思ったし、加えて、そういった現実を知らなかった自分へのがっかり感もすごかった。なんと世間知らずだったのだろう!と。
さらに言えば、この差別的な目線の延長に自分も立っているのか(それにもさほど自覚的でなかった)という事実にも気が滅入りました。
例えて言うなら、家(=仲間のいる状態)から外(=仲間がいない状態)に出て、いきな巨大な怪物を見てしまったような驚きでしょうか。
しかもその、差別心という怪物は、自分の中にも潜んでいるのです。
そのドロドロとした現実が自分の生活に流れ込む事に私は耐えられませんでした。
しかし、その後私は、自ら自分の障害の話を漫画に描き、そういう話を人前でするようになっていきます。自分の障害に向き合えるようになってから、少しずつ、他者の障害へ、また、それを包摂する社会へ…と目を向けられるようになりました。
そうするしかなかったとはいえ、向き合えるようになるまで時間がかかりすぎてしまったと思っています。

そしてやはり、こんなふうに考えながら一歩一歩進むことができたのも、安心できる人間関係があったからです。
その安心感が持ちづらい環境について、私はどのくらい目線を合わせられるでしょうか。
結局は、想像するしかありません。でも、その目線に立とうとしたり、それが出来ないことに落ち込んだりするのをやめない事が、今からでもできる弔いだと思っています。
いろいろな本を発売中です

📗配信サイト
Rakuten kobo / Apple Books / BOOKS MART
やまだ書店 / どこでも読書 / yodobashi.com
honto / book walker / kindle
book live / COCORO BOOKS




コメント